愛、という差別

友人エムと遊んでいるとき、中学時代の親友エルからLINEがきた。

「明後日の夜あいてる?」

ほお、珍しい。

わたしの顔を見たエムが、「誰から?」と聞いてきた。

「エル。たぶん、ご飯行こって。」

「ああ!この前、誘おうかなって話してたよ」

エムとエルも仲が良く、つい先日に会ったらしい。

「マジで?なんか緊張するな」

「なんで笑」

エルとわたしは、中学時代は常に行動を共にするふたりであった。
それが高校に上がってからは疎遠になり、べつに喧嘩をしたわけでもないのだが、なんだか気まずさを感じてしまうようになっているのだ。

「いいじゃん、行ってきなよ」

まるで初対面の男性と会うときのようなエムの背中の押し方に、思わずふふっと笑ってしまう。

「あいてるよ」

とりあえず、そう送信した。


わたしがエルにある種の気まずさを感じているのには、いま述べたようなぼんやりしたもののほかに、もっとはっきりした理由があった。

わたしの恋愛経験の少なさがそれである。

わたしたちは中高を女子校で過ごした。
わたしはいまだに男性が苦手だし、彼氏という存在の必要性も感じることができないでいる。
対して、エルは彼氏一筋で、ほとんど毎日彼氏と過ごしているように見受けられる。

惚気話を聞かされるのが嫌とかいうのとは、また違うのだろうと思う。
まるで価値観が違うのではないかという不安があるのだ。それに、話し相手がわたしでは、向こうに気を遣わせてしまうかもしれない。

めんどくさいなぁ。

女子校を卒業してから、何度も思うことである。
男と女が存在するということが、あまりにも面倒だ。

世の中にはこんな区別の意識が無い人もまたいるのだろうと思うし、いっそそうなってしまいたいのだが、今のわたしの見地に立ってはまず無理なことだろう。男性というものに対するデータが少なすぎて、目の前にそれが現れたとき、性差を強烈に意識してしまう。どうしたって、よくよくまで見知った、女性という存在とは区別してしまう。


ピロン。

「飲み行かん?エスとエイチも来るって!」

げ、と小さな声が出た。

本当は、会いたい2人なのである。
それなのに、全員彼氏持ちの彼女たちが集まったとき、する話は決まっていて、あいまいに笑ってやり過ごすような、いまの彼女たちを目の前にしながら昔を懐かしんでしまうような、あの居たたまれなくてやりきれない気持ちは経験済みなのだ。
わたしは悲しい。とつぜんに現れて、彼女たちのすべてを持っていってしまった、男性という存在が憎い。恋をするという人間の本能が憎い。

わたしは、敬愛する、とあるインフルエンサーのことを思い出していた。
彼女は人類が好きだと言う。
自分がとてつもなく幸せに包まれているとき、そういう気分になること、とても理解できる。
そして彼女には恋人がいない。
人類を博愛する彼女には、恋人を愛するという差別ができないのではないだろうか、という考えがふと頭をよぎった。

やはり、愛は差別だ。

これは漫画家・幸村誠先生の哲学であるが、なんだか実感をもって理解できた気がする。

わたしはどうだろう。
人類を深く愛し、宇宙を愛すならば、特定の恋人も愛せないが、わたしの大切な友人たちの恋人を憎むこともない。

そんなふうにわたしはなりたいし、その先に初めて、わたしが愛せる人も現れるのかもしれない。

男性のことも、愛せるようになりたい。

追記
わたしの恋愛対象は男性であって、好きだなぁと思う男の人はいるけれども、その人のことを愛するには、恋というフェーズを踏まなければいけないらしい。そのフェーズが、嫌いだ。むず痒くて、気持ち悪い。相手に認めてもらおうとする時間。だいいち面倒だ。恋愛対象ではない性別の相手(わたしにとっては女性)なら、極端な話、勝手に愛を始めることができる。好きが即ち愛になる。好き→恋→愛という段階を踏んで恋人を愛している世の中のカップルたちを、わたしは心の底から、尊敬している。

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