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往く日々と夜(10)(R18)

第十章 初雪

作者MiyaNaoki 翻訳sekii

「筋肉に食い込んだほどきつく締め付けられたロープがすこしずつ抜けたら、悠子は自ら蜜穴に手を入れてかき回しながら、ロープをほどいてくれる矢田さんの姿をぼんやり眺めている。その締め付けには限りない愛があるのを感じた。彼女は網のような、身体中にある鮮やかな赤い跡を大事にしている。それは深く愛された証なのだ。」
城戸が願っていた通り、先生の旧宅で行われた例の大胆な実験は、木島のインスピレーションの泉となったかのようで、新しいアイディアやストーリーが次々と木島の頭の中に浮かんできた。時折木島は、自分が文字を書くスピードについていけないような気がして、休むことなく、徹夜して書いても時間が足りない。
彼はある種の狂気に陥っていて、一日三時間足らずしか眠れず、夜中にふと起きてから机に向かってベンを走らせることがよくあった。また、食事中は気が遠くなり、空腹になるとパサパサになったパンをかじりながら、目を輝かせて創作に没頭したりしていた。まるで、魂が別の場所で生きているようだ。空腹も疲れも感じなさそうだが、顔色は目に見えてやつれてきた。
城戸は木島の体に心配していた。長年つとめて、官能小説に偏見を持っていない。考えてみれば社長の主張も無理がなく、官能小説が売れているということは世の中が平和の証だ。が、官能小説には木島のような天才がもったいなく、それに、そこまで一所懸命書く必要がない。こんなものを書くために体調を崩してしまったら、とてももったいないことだ。しかし、どうやって説得すればいいのか、城戸にはわからなかった。創作に関しては、城戸はあまりものが言えない。
どれほどいいにくくても、城戸は言おうとした。城戸の中には、木島の面倒を見るのが自分の役目だという信条があった。彼が今できることは、それしかなかったのだ。
1月初頭、東京は初雪が降った。雪が静かに、ひらひら舞い落ち、この都市のぜいたく三昧の生活や愛、執念、恨みの感情を覆って、すべてが純潔無垢に飾り付けた。気温も五、六度急に下がった。木島はもともと冷え性で手足が冷えやすいのだが、それにもかかわらず面倒で、いつも暖かい靴下をはかなく、素足のまま震えながら机に向かってひたすら本を読んだ。
夕方、雪を踏みしめてなんとか出版社から帰ってきた城戸は、木島の必死の様子に何か言おうとすると、木島の頰が異様に赤く、額に当ててみたら、微熱があるのがわかった。
城戸は顔をしかめ、木島の反対にもかかわらず木島を毛布で包んでソファに置いた。温度計を口に含ませ、生姜湯を煮に行く時もくれぐれも注意している。
「噛み切らないで、水銀を飲んでしまったら中毒だよ」
木島はうっとりと巻き寿司のような形に包まれていたが、夢中していた状態から少し目を覚ますと、疲れが雪のように降り積もり、体は軽くて重く感じて、雪と一緒に冷たく溶けてしまいそうだ。
「おまえはね、ものごとにもほどがあるよ。そんなに一生懸命に創作することなんてないだろう」
城戸の表情が深刻で、いつもと違って木島を厳しく責めた。が、スプーンをひと吹き、木島に生姜湯を与える仕草は、やはり控え目で優しかった。
熱い生姜湯を何口も飲むと、木島のピントがない目つきが少し明るくなった。彼は恐縮と怯えの感情を込めて、城戸の方を悔しそうに見た。それだけで、先程説教の材料を用意していた編集者は、かすれて無言でため息をついてしまった。
「いえ、すぐ書き終わるから…」
木島はゆっくりと目を閉じた。今回は本当に疲れたのだ。大した作品でもないし、文学作品とも言えないものだが、彼は夢中になって書いていた。無意識のうちに、木島は城戸に褒められたいと思っていたし、露骨で艶やかな文章で城戸に新鮮の感じ、できれば体の反応をもたらしたいと思ったのだ。いやむしろ、女子高生が片思いの先輩にラブレターを書くように、木島は城戸だけのために書こうとして、心を揺さぶられ、悲喜こもごもしていた。
書いている時は疲れが感じないが、一旦休んだら、頭がふらふらして、体も異常に熱く、意識が深淵の下へ重く引っ張られて、落ちていく……
冷えたタオルを絞って木島の額にかぶせながら、城戸はこっそりと年に似合わないため息をついていた。木島が動かなく、甘い眠りに落ちてしまったのを見て、城戸はまた起こさないように、慎重に歩き、心臓の鼓動までも呼吸もゆるめた。暖房がよく効いていて、のんびりとした雰囲気が漂った。暖かい空気と毛布に包まれた木島は、まつげを閉じたまま、少年のように純粋に見えた。それが単なる虚像であることはわかっていたのだが、城戸はそんな木島に悔しみを感じた。
城戸は時々、凡庸な自分がなぜ木島のような人間と絡み合うようになったか、そして木島の荒唐無稽な生き方を理解し、受け入れたか、と疑ったことがある。また、今になって、精神的に寄り添っているように感じることが多い妙な生活はいったい誰のおかげか。考えてもわからないが、城戸は自分がここにいて、ここから立ち去ろうともしないという事実を認めただけだ。
木島はぐっすり眠っており、感覚が鈍くなったようだ。城戸は木島の顔を覗き込んで、そっと目にキスをした。この純情なキスは何の欲望も混じっておらず、ただ未練と惜しみばかりで、彼らの間には珍しい。
城戸は、二人の関係がいつどんな破局を迎えるかわからない。そして、木島がそれに共感するかどうかは、彼にはわからなかった。一年あまりの同居で、二人は無意識のうちに将来に関する議論を省き、毎日がこの世の末日であるかのように、思う存分、身勝手に、しばしの歓楽にふけっていた。城戸は自分を真っ二つに割り、世間の決まりに迎合する城戸と、木島の望みに従う城戸がいる。どの城戸もそれぞれに満足と恐怖を持っていた。
一方、木島はそのような悩みは全くなかったようで、ずっと一緒にいることを望んだことは一度もなかった。彼は自分の生活設計をわざと放棄し、この世との複雑な関係をすべて断ち切って、このマンションに住み込み、城戸だけと話す生活を永遠に目覚めない夢のように考えていたらしい。
城戸にはこのあきらかに異常な生活がいつまで続くのかわからなかったが、この夢が潰された時の木島の落胆と悲しみを想像するだけで、胸から指先までが、じりっと痛んだ。
この前、蒲生田宅から帰ってきた後、木島が先生のお墓参りに行きたいと言い出して、翌日には出かけた。意外なことに、生前ひとりぼっちで、これ以上の縁故者もいないマスターのお墓に、亡くなった後に多くの人が弔いに訪れていた。お墓は綺麗に掃除され、たくさんの花が捧げられた。もっとも注意を惹きつけたのは、アダルトビデオやら、官能小説やら、SM道具やら、亡くなった人の好みばかりだ。
「失礼しました。毎日、片付けていますけど、やはり多くて、それに昼ですから…」
墓地の管理人は慌ててかけつけてきた。
「大丈夫です。先生は気にしないと思います」
城戸は親切に宥めながらも、むしろ楽しんでいるかもしれない、と思っていた。
木島はそんなことはまったく気にせず、一人で落ち葉を拾い、花束を整えていた。その表情が厳しかったので、城戸も気を取り直して、水をゆっくりと墓石にかけ、少しずつ拭いていった。それから、木島が花束と線香を供え、二人で並んで手を合わせ、頭を垂れて祈りをした。静かな墓地には、髪を掠める風の音と、ふいに響く鳥の声だけあった。
この厳かな儀式の中で、城戸の心には自然と感傷的なものがこみ上げてきた。あの日、病室でこの老人が、木島の面倒を頼むと、せわしなく念を押したことを思い出した。この遺言みたいな言葉は、城戸の心に刻みつけられた。実際、蒲生田先生にそう言われなくても、木島を放っておくことは一生できなかったのだろうが、そう言われてからの気遣いと責任は、城戸の人生の中で一層重みを持つようになった。
そもそも木島が先生と一緒にいた時間は、それほど長くはなかったが、あの一生酒や女におぼれて人情を捨てた道楽者にこれほど心配させるのは、やはり木島は何か心を奪う性質を持っていたからだろうか。
そう思って城戸は首をかしげ、まだ祈りを捧げている木島の方を見た。木島は横顔が静かで冷たく、墓地で悲しそうに見えるが、顔をあげたときには、にやりと笑っていた。
「何を?」
かなり引き返したところで、城戸が聞いた。
「昔の…まずいことを思い出したのだ。さっき先生に聞いたんだ。これで満足じゃないかって」
問い返す語尾が、木島によってわざと長く引かれて、城戸を彼の心の奥へと導いた。
城戸はすぐわかった。たくさんの画面や音が一気に頭に流れ込んできた。先生のお葬式でのあの狂った夜を思えば、今でも胸が騒ぐ。木島が自分の渋々の告白を止め、そっとネクタイを引き寄せ、唇を少し開いて、その定められたキスを迎えたところから、すべては激しく乱れた情欲の激流に巻き込まれていった。
木島の体に入ったのはそれが初めてだ。それまで何度か、木島に強く引きずられて、身も心も完全に暴走してしまいそうな体験があった。しかし、実際にその温かく締まった通路に肉棒が入り込み、致命的な甘い香りに包まれたとき、その運命的ないい相性は、まるで薬物中毒のように、彼の体と心を支配した。彼は何度も何度も木島の最も深いところに入り込んで、自身の動きで木島を声に出させて、彼はほとんどすべての知識とトリックを使って、好きな人を喜ばせた。今でも木島を後ろから抱きしめ、腰のあたりを握り、掌の感触が、熱い汗ですこしべたつき、溶けた砂糖のようだと想像できる。
その日から、城戸は木島の引力の場や自らの本当の気持ちから逃れて、いわゆる正しい、凡庸な生活を求めることができなくなった。一人で苦労して育ててくれた母には申し訳なかったが、木島との生活を放棄することは、彼にはあまりにも大変だった。毎日目が覚めて、木島が丸くなって横になっているのを見ると、満足を感じずにはいられない。仕事の帰りにも、木島は家で何をしているのか、仕事の調子はどうなのか、食事はちゃんとしているのか…時間をさかのぼれば、自分の人生でたった一度、あれほど馬鹿な恋をした相手が木島だったとは信じられないだろう。あの大学時代に自分の彼女を横取りし、しかも自分のことを気にかけなかったあの高慢な男だったとは。でも、信じられないことは逆に起こる、というのが感情のマーフィーの法則かもしれない。
いずれはその幻から目を覚ますことになるかもしれないが、少なくともいま、木島と並んで歩いたり、笑顔で顔を見合わせたり、同じ部屋で互いの気配に慣れたりする刻々は、城戸にとっては完璧に近い生活だ。
木島にはどうしてもうまく話せないことがある。
それは断片で、まとまった論理にはならない。顔色をうかがい、忖度するのが得意なくせに、木島に向かうと、城戸はいつもぎこちなくて堅苦しくなる。木島の一貫した素直でわがままな個性とあまりの自由と比べて、城戸のためらいと恐縮がいっそう際立つ。やはり木島にかっこつけたい。そして、一生木島の面倒を見ると言っても、木島が喜ぶわけではない。木島がほしいのは、献身的な付き添いとわかっているから。
城戸がぼんやりと木島を眺めて妄想を走らせていたのを、木島は知らない。彼はうだるような暑さの中で夢を見ていた。視界には白い海が揺れていて、それは雪でできた冬の海だ。場面や色があまりにもみずみずしくあたたかくて、見たことのない朝ドラのようだった。
そして、城戸と一緒に神社へお参りに行った。透き通るような陽射しを浴びながら、二人は階段を一段ずつ軽やかに上っていた。そのお寺は知っている建物のようではなく、家から近い浅草寺のようで、または日光の二荒山神社のようだった。不思議な夢だなと、木島が思った。ふたつの建物はまったく似ていないに。とにかく、山に覆われた古風な神社で、人だかりもなく、二人きりで歩いてきた。どういうわけか、二人は社殿の前にきた。賽銭を投げて、お辞儀を2回、パッパッと手を打って、またお辞儀をした。城戸が神さまに向かって、何を祈ったのか、と聞くように、木島は城戸の方を横目でちらりと見た。
もちろん、始まりも終わりもない夢の中で、城戸の願いを知るわけがないが、彼は自分が禁じられた願いをしたとはっきり知っていた。可笑しい、夢の中でも、そんなに欲張っていいのか。彼は自分を嘲い、そしてその夢の中の願いは実現することがありえないため、どこかに捨てられ、はかなく悲しい色がそまった。
城戸と一緒に、正月の朝から電車で初詣に行ったことがなかった。城戸から誘われたが、木島は淡々と断った。クリスマスイブ、年越しの夜を含め、すべてのいい願いが込められる夜に、二人は普通の恋人のように楽しい人波に合流して燦然とした花火を見上げ、作られた幻想的な景色のために悲鳴をあげて笑い、祝日の名目でみんなの前にキスすることをしなかった。ただここに隠れ、何度も何度も相手の体を求めていた。撫でられたり、舐められたり、入ってきたりする時だけは存在が確認されて、それに安全だと思えるような癖ができたのではないかと、木島は疑う。祝福された純粋な愛やら、将来のための祈りやらは、二人にはふさわしくないと、自分の考えがなかなか変えられないと思っていた。しかし、どうしてこんな幼稚な夢を見て、愚かな期待をしたか。木島はその恐るべき潜意識に不快感を覚えて、起きあがろうともがいていたが、眼を開けたら、鼻根筋がしばらく皺を寄せたせいで疲れと感じ、眼の端にうっすらと涙が滲んだ。
「落ち着かなかったね……まだ数十分しか寝ていないのに…」
城戸が心配して小さい声で言った。そして指で木島の目尻を拭いた。どきどきしながらおでこをさすったら、熱はすぐに下がったらしい。確信がなく、しばらく手のひらを当てていたが、異常がないことを確認してようやく安心した。
目が覚めると、木島は動きにくいから布団を振りほどこうとし、多少しびれた腕と足を動かした。それを見ていた城戸は、また手を出して、半分以上床に滑り落ちた布団を引っ張り上げ、これから靴下くらいは穿かないと、と木島の足を指さした。その無策ぶりに木島は思わず笑った。彼の中には、そういう小言が好きな木島がいる。もうすこしそのような小言を聞くために、城戸の良い生活習慣にあえて逆らっている気持ちもあった。
「もうすぐ書き終わる?」
城戸は台所へ行き、急いで雑炊を作った。熱は下がったが、顔色はやっぱりよくなかったため、病院に行くように説得しょうかどうか、城戸は迷っていた。
「うん…『縛愛』、そろそろ終わりだ。あとでもうすこし書けば完成すると思うよ」
木島は骨をぎしぎしと鳴らして伸びをしているのを、城戸はその細い骨がばらばらになるのではないかと、少し怖かった。
「また書くか…今日はやめて、明日にしようよ…」
担当編集者が原稿を催促せず、逆に作家に書くなと勧めるなんて、人に知られたら、業界に笑われるかもしれないと城戸はふと思った。
「いや、あと少しで終わる。いいものが頭に入っている。今書かないと、明日には忘れるかもしれない」
木島は頭を支え、目をこすりながら、困ったような顔をしていた。
「そうだね、そんなに物忘れが激しいし…」
城戸はお湯をふうふう吹きながら、木島をからかった。彼の言っていることがどれくらい信じられるか、あとどれくらい書くのかを考えていた。
木島は彼を横目で見たが、何も答えず、布団から足を出し、床にあるスリッパを探した。
「お湯、もう少し飲んだら。さっきは本当にびっくりした。お前を背負って病院に行かなければならないのかと…」
城戸はまだ安心していなかった。
ガチャン!床に叩きつけられたコップの縁が大きく欠け、お湯が飛び散った。突然の事態に戸惑った城戸は、慌てて木島の様子を見たが、幸い、布団が破片からのほとんどの攻撃を防いだし、木島も怪我をした様子はなかった。
「どうした?……滑ったか。」
城戸は呟きながら、木島の濡れた靴下を脱がそうとして、何かおかしいことに気づいた。
木島は彫刻のように固まったまま、戸惑いと恐怖を感じながら、自分の左手を見つめていた。城戸はようやく違和感に気づいた。木島の手はコントロールを失ったかのようにずっと震えていた。恐怖が急に頭蓋骨まで上がってきた。一瞬、城戸は立ちすくんでしまった。木島は息を切らしながら、拳を握りしめてみたが、少し曲がっただけで、痛みが電流のように腕全体に走り、木島は思わず声をあげてしまった。
「どうした?痛い?」
城戸の声も不安定になってきた。木島の様子がとても心配だった。
木島はゆっくりと顔を上げたが、眉間に皺を寄せ、その目には恐怖と心配が満ちていて、何も言えなかった。

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