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往く日々と夜(20)(R18)

第二十章 欠損の月

作者MiyaNaoki 翻訳sekii

城戸が木島のマンションに帰ってきたのは、夜の1時頃だった。そんなに急がなくてもよかったが、心配に耐えられず、ぐっすり眠れた夜はほとんどなかったのだ。
木島は城戸が帰郷して三日目から、まったく連絡がつかなくなってしまった。電話に出なく、メールも返事しない。城戸は北川たちに聞いても、全然ドアを開けてくれず、食べ物やタバコをドアに置いておくように言われただけで、部屋の中が物音ひとつしないこともあり、在宅しているかどうかさえわからないそうだ。それを聞くと城戸は苛立ちを感じたが、怒るわけにもいかず、母親の看病の合間を盗んで木島に連絡を取ったが、やはり音信不通のままだ。
そして今、彼は例のマンションのドアの前に立って、十数分間ドアをノックしたが、応答がなく、ドアの隙間には一点の明かりもない。木島はどこにもいないようだったし、そして城戸はうっかりして鍵を忘れてしまったので、ただ馬鹿みたいにドアの前に立って、廊下の上の暗い明かりを見つめていたしかない。
悩んだ末、城戸は携帯電話を取り出し、母親に安否を知らせるメールを打ってみたが、やはり返事がなかった。彼は、今の自分の憎まれ役を、十分に認識していた。
出発するとき、母親とみっともない喧嘩をした。休みが終わるまで家にいることにしたが、会社の用事を理由に早めに東京に戻ったのだ。母は手術を受けて退院して間もない頃から機嫌が悪かったのだが、城戸が忙しそうに荷物を片付けているのを見ると、またいつものように言い聞かせた。
「士郎、奥さんがいるなら、こんなことしなくてもいいんじゃないか。せめて誰か協力してくれる人がいるんじゃないか。何度も言っているのに、どうして聞いてくれないか。そんなにお母さんに心配かけさせてな」
これくらいの結婚催促には、城戸はかなり免疫があり、それにもきちんと対応して表面的な平和を保った。まさか母が木島のことを持ち出すとは思っていなかった。
「帰ったらさっさと引っ越して。一生昔の学友と一緒に住むつもりなの?ああいう本を書く人に近づいて、いい結婚相手が見つかるか」
それを聞いた城戸は、急に怒りがこみ上げてきて、理性を焼きはらった。
「木島に関係ない。木島はすごい作家だし、それに、俺がやっている仕事はそんなものだ。結婚できなくて他の人と関係ない」
家の中の空気が、妙にしんとなった。父が早くに亡くなり、母が学校で働きながら、彼と姉を一人で苦労して育てたから、城戸はいつも言うことをきく息子でいようと思っていた。時には強引で干渉が強すぎると思っても、できるだけ我慢するから、口をきいた記憶はほとんどない。そのため、突然の返事は母を黙らせた。幸い、すぐに後を継いだ姉がやってきたので、城戸は慌てて言い残し、息もできないほど重苦しい家から逃げ出した。
母親のことや、家族のことも愛しているし、できるだけ喜ばせたいと思っている。どんなに反抗的で、不羈な人間になろうとも思っていなかったし、こんなに木島と同棲しても、彼は本質から目をそらし、それを日常生活の一部にしようと努めていたが、他人から見ればそれは病的なものだったのかもしれない。
そう思った城戸は、タバコを一口深く吸い、青白い煙をゆっくりと吐き出しながら、そのふわふわした形が、まるで彼の心の中にある不可解な問題のように、宙をぐるぐる回っている。
階段の下から物音がある。雑踏の足音に混じって、何かが微かに聞こえた。城戸は、その声が木島であることを敏感に聞き取って、急いで階段に向かったが、目にしたシーンにどうすればわからないほど驚いた。
薄暗い廊下で、知らない男に抱かれた男はコートが無闇に羽織られ、白い首が冬の冷たい空気に露わになっている。シャツの襟も開け放された。それは木島だと城戸がすぐわかった。木島は無抵抗に抱かれて、よろよろと階段を上がり、もう深酔いしている。男は木島を抱き上げながら、露骨な言葉で挑発している。
「ここですか?それともそこ?僕も入ってもいいですか?つきあってあげますよ、今夜は」
城戸は急に犯罪衝動ができ、それに駆られ、ほとんど本能的に木島をその男の懐から引き摺り出した。少し力が入っていたので、木島はまったく支える力がなく、城戸の肩に少し強く頭をぶつけ、痛いよと眉をひそめて訴えた。城戸は心がぎゅっと絞られたような気がして、大事そうに木島を抱きしめて、しっかりと寄り添ってもらう。
その様子を見たら、見知らぬ男も、何かを察したかのようだ。
「ああ……そういうことか。はいはいはいはい、それでは」
そもそも、男は木島とバーで出会った場当たりの関係で、城戸が現れると、ふらふらと離れた。
城戸はまだ腹が立っていたが、それを追及する場合でもないので、木島の様子を見ようと首を傾げていると、木島のとろけるような目に会った。
「城戸…帰ったの…」
木島は酔いしれたような顔をしていたが、笑いも忘れず、ただでさえ誘惑する声は、どこか甘ったれていた。
「ああ、ただいま。鍵は?」
城戸は怒りをおさえて、わざと大きな声を出して、木島を支えながら、彼の懐の中をさぐっていた。幸運に、鍵があって、木島も無事に戻ってきた。
転がるようにして部屋に入った城戸は、木島がかなり酔っていることに気づき、少しでも踏ん張っていないと床に滑り落ちてしまうので、仕方なく無理やりベッドまで運んで行ったそうだ。抱きあげてみると、ずいぶん軽くなっていて、服の上からでも骨がごわごわして、いったい何をやってきたか、こいつと城戸は嘆く。
「うん…ああ…」
降ろされたとき、木島は頼りなさそうにベッドで転々としながら、顔をしかめて苦しそうな声を出していた。彼の頰は変に赤く熱いが、体は寒風に何時間も吹かれたように冷たく感じられた。城戸は目が覚めたらどうやって説教しょうかと思うが、やはりおしぼりで手も足もあたたか拭い、ここ数日、音信不通になった木島は、どんな生活をしていたかと考えるとまたぞっとする。
ようやく落ち着いて、城戸がベッドのそばに座って、木島の寝顔を凝視して、なくなったものを取り戻したような大げさな気持ちがある。ただ数日実家に帰っただけなのに、変化が著しく激しく、淋しく感じるのはなぜだろうか。城戸は木島の柔らかくて冷たい髪を撫で、指の腹でそっと撫でる。
「どうしたか…お酒はしばらく飲まないと約束しただろう。このように外出して、おまけに泥酔したのは」
木島は城戸に触れて、ようやく落ち着いたが、意識がまたどこに漂ったのか分からなくて、意外にもぼんやりしている中で、とても無邪気な微笑みを浮かべて、口の中でまだもやもやとした声でぶつぶつ呟く。
「もっと飲もう…続けて、修也君…付き合ってくれ」
修也って誰?そう思うと、城戸は額に青筋が走るのを感じたが、大人の男なら誰でもできるほどの自制力を発揮して、ようやくこの酔っ払いめを揺り起こして尋問する衝動を抑えた。ついに、城戸は小さくため息をつくだけで、部屋を出て、ドアを閉めた。そういう時こそ、二人の間には排他的な約束がないのだと、ふと気づく。
慣れ親しんだ匂いが消えた後、木島は身を縮め、暗闇の中でゆっくりと目を開けた。まだ酔っている。しっかり酔うために、彼は本当に相当な量のウイスキーを飲んで、毎晩重い眠気を感じ、めまいをしながら眠りについていた。ただ、木島はいま理知を失ったほどではなく、久しぶりに城戸に抱かれたときの温かさをよく覚えていた。体に馴染んだ感触をすこしずつ思い出しながら、目の前にある寂しい闇に城戸士郎の際どい優しさが、塵のように降りてきて、このまま葬り去りたくなったのをじっと見つめている。
彼はただぼうっと見ていたが、自分の見たいものが何なのかわからなかった。城戸がやっと帰ってきた喜びは力を振り絞っても抑えきれないが、ついに城戸を失う終末はどうしても避けられない。未来は、このうつろで孤独な暗闇が示してくれた様子だ。
 
城戸が目を覚ましたとき、木島はまだ眠っていた。昨夜、ベッドの横にうずくまって、城戸から微妙な距離を取って眠っていた。これは尋常なことではなく、同じベッドで三年近くも寝ているのだから、微妙な感覚や癖はすべてわかっている。木島はいつも城戸の方を向いて寝ていたので、ときどき彼の手を握ったり、腕に手を添えたり、寒さに寄ってきたりしたので、朝、目を覚まして出勤する城戸は、木島を起こさないよう細心の注意を払っていた。昨晩の木島は、何かを抑えようとして、またなぜか警戒している様子だった。
彼が帰郷していた間に、妙に変化が多い。城戸は頭の中が混乱していて、整理もできないし、手もつけられない。いらいらしていて、危うく朝食の卵が焦げそうになった。少し空しさを感じて、木島を起こそうか、もっと眠ってもらうかと考えている間、木島が額に手を当て、足を引きずるようにしてふらふらと寝室を出て行き、まるで自分の姿が見えないかのようにソファーの前に座り、タバコを取り、火をつけた。
「まだ気分が悪いのか?」
城戸は、腹が立ったがそれを極力に抑えていた。木島の前に朝食を置くことにも、あきらかに感情がこもっていた。
「え?城戸君はいつ帰ってきたか?」
ずっと前に大学教授の葬式で再会した時のように、木島は顔を上げた。無愛想ではあったが、咎めようもなかった。
「ふむ………」
城戸はせせら笑ってから、少し不機嫌そうに木島をにらんだ。
「昨夜、お前が抱きつかれて帰ってきたときだ」
「はあ?そうね………」
木島はタバコを手にしたまま、懸命に思い出したようだったが、それからはすっかり知ったような顔をして、何の解決策もなく、ごく自然に世間話を始めた。
「お母さんの病気はどう?元気になったか?」
「手術は成功したが、どれほど回復するかはまだわからない」
城戸は少しいらいらしていた。母親のことを思い出して心配していたし、目の前の木島の様子も怪しい。
「そうか」
木島はそっけなく答え、見知らぬ老人のことなど気にもかけず、ただ聞いているだけだという、明らかにおざなりな態度を伝えた。
「ね………いったいなにがあったか」
さすがに我慢できなくなった城戸が向かいに座ると、朝食を催促する。
「どうしたんですか、お酒は飲まないって約束したじゃないか。おれが歩いている間に何かあったか?創作に問題があるとか?」
「う、る、さ、い。お酒を飲むかどうかは、僕が決めることだよね」
木島は口の中に食べ物を詰め込んだまま、曖昧に応えた。
城戸は何か言おうとしたが、木島が話したくなさそうな顔をしているので、少し気が悪くなった。また、もう帰ってしまったから、ゆっくり話そうと自分にいいきかせて、台所を片づけに出ようとして立ち上がりかけたとき、ふと思いついたことがあった。
「ところで、おれの鍵?電話して、しまってもらったが」
城戸はもう二度とドアの外に閉じこめられて、あんなみすぼらしい光景を見たくない。
「玄関のキャビネットの引き出しの中にある。でも、君はすぐにいらなくなるだろう」
木島の低い声の答えで城戸が動けなくなった。
「どういう意味?一体何があったか」
城戸は眉をひそめ、木島のほうを振り返った。
「べつに…」
木島は平気に手にしていた皿を置き、奇妙な形に散らばったパン屑をぼんやりと眺めていた。仏の真似をしてあの世から聞こえてくる自分の声を聞いていた。
「僕、引っ越しする」
「引っ越し?」
城戸は自分の耳を疑った。あまりにも変で、それは普通の変化ではなく、徹底的な崩壊だと確信していた。
「ここはお前が買った家だろう。いったい何が?」
「いや、ここには住みたくないだ」
木島はもう一本のタバコに火を点けたが、それを吸わず、ぼんやりと指先に挟んだままで、いつもと変わらない口調で平気に話す。
「もうちょっと広い部屋を引っ越そうと思って、北川くんに探してもらったから、君もそろそろどこかに引っ越すじゃないか」
「はあ?」
城戸は自分が夢を見ているのではないかと疑ったが、手のひらに爪が食い込む痛みでそれが真実だと分かった。彼は信じられないように木島を見たが、木島は自分がどれほどひどいことをいったのかわからないというような冷たい顔をしていた。城戸は、秋風に吹かれた雑草のように乱れながら、駆け寄って木島の肩をつまんで切に聞く。
「ねえ、一体何があったのか。いきなり…」
「突然、か」木島はくすくすと笑いだした。彼の笑顔は相変わらずきれいだが、妙に冷ややかだった。「君が来たのも突然じゃないか。一回目は、彼女に追い出されて、行くところがなくて、しばらくの間泊まっただけ。二度目は結婚がパーして、行くところがなく、僕と寝るだけ…いつでも突然だよ」
城戸は言葉に詰まった。改めて木島の怖さを感じた。彼のいうことは言い返ようがない。ただ、ただ、非常に重要な何かが、誓いの形になっていないために無視され、省略された。彼はどう訊けばいいのかもわからず、ただ茫然として、どうして、と独り言のように呟いていた。
木島はわざと立って城戸に背を向ける。そうしたら表情に秘密が漏れる心配がなく、穏やかで軽快な声で相手を刺すことができる。
「君がいない間、僕は元の生活スタイルに戻った。急に、とても楽に思うようになった。もともと僕は一人暮らしで、一人で生活して、一人で書いていて…それに、君は一生僕といるわけがないだろう」
話が終わろうとするところで、木島は嗚咽を隠すために、燃え尽きそうな煙を吸い込み、わざと猛烈に集中した匂いにむせた。彼は小さく咳払いをし、喉の痛みを抑えて、書きに行くとかすれた声で言った。
そう、木島は今すぐこの場から逃げ出しなければならないのだ。彼は依然として二日酔いの頭痛に悩まされている。心にもない言葉が自分の心にも突き刺さっている。次の瞬間、自分は相手より早く崩壊するかもわからない。
しかし城戸は明らかに、この話をこのままでは終わらせたくない。木島が書斎に逃げようとするのを遮り、その腕を引つ張った。
「木島、一体何があったか。本気で言ってるんじゃないでしょう」
木島は窮迫と切なさに追われた。彼の目には涙がいっぱいで、少しも気を抜かないと、せっかくの決意が粉になってしまうことを知りながら、わざとそっぽを向いて、城戸のショックで赤くなった目を見ないようにした。それを我慢するのにもう限界だ。
「本当のことを言ってる。城戸、早くどこかに引っ越したほうがいい」
木島は力を込めて腕を引き戻そうとしたが、さらに強く引っ張られた。城戸が今にも気が狂いそうで、じっと木島を見つめていて、恨んでいるような顔をしていたが、木島はその崩壊寸前の様子に少しほっとした。自分を恨んでもいい、木島理生の名を恨んで、その心に刻み込ませていい。
しかし、その表情は封印されたように少しの隙も見せず、渦巻く感情を抑えつけた後、静かに城戸を見拠えた目には、冷たい霧が浮かんでいた。
「そうか。作家の創作に邪魔する、それは担当編集者のやるべきことか。もしくは、その行為を説明する別の理由があるのかもしれない」
木島の正しくて深刻な指摘に対して、城戸の問いや疑いが理不尽に見える。確かに、あの桜の舞いあがる午後に、二人は関係に定義をした。木島は鬼島蓮二郎の担当編集者でしかない。それだけ。離れようとする木島を引き止めて、なぜこんな関係を続けないのかと聞くのはあまりにも卑怯で、可笑しいことだ。
木島は、城戸のぽかんとする隙に、きつく捕まえられた手から逃れるようにさっさと書斎に入り、ドアを乱暴に閉めた。
城戸は立ったままだ。両手にはカラカラだ。さっきの握るという動作は維持されたが、何も掴むことができず、息苦しそうに息をしていた。閉じられた扉を見ると、木島に断れた苦痛が、骨の隙間にナイフのように突き刺されるほど巨大なものだ。
ドアの向こうの木島の姿は見えない。実は、ドアを閉める瞬間、木島は力なくドアに寄りかかり、痛む手首を握り、胸を押さえ、床に滑り落ち、声を必死に抑え、小さく息をしていた。
これでよかろう、十分だろう、と木島は無言で自分に言い聞かせた。目から溢れた涙が、青白い頰を伝って落ちてきた。木島は自分がこの世界から消えていくような気がしていた。なぜなら、世界を意味あるものにしてくれた何かが、たった今、自分の手で殺されてしまったからだ。
生活はまだうまく運んでいるように見える。無視できない亀裂が入っていても、すぐには崩れない。城戸が休暇を早めに切り上げて帰ったとき、編集長は最近仕事が多すぎて気が滅入ると言い、彼の勤労ぶりに感謝して、多くの細かい仕事を振り分けた。だが、城戸は逆に気が楽になる。気を紛らわせるために必要なこともあったのだ。社会人というのはそういうもので、世界が崩壊しても、仕事に没頭していれば、見ないふりで潜ればいい。
木島は城戸が予想していたように、酔いが醒めて頭がすっきりしたら、何事もなく、もともとの生活の軌道に戻ったことがない。木島はすっかり別人になってしまったようだ。それは、城戸がおぼろげに覚えてはいるが、馴染みとは言えない様子で、無愛想でわがままで、人を拒み、性格が悪く、昼間は書斎にこもって書き物をし、夜は挨拶もなく出かけ、帰ってくるといつも酔っぱらって、話もしないで寝ていた。ただ、変な男に送られることはなかった。 
引っ越しのことも城戸には話さなかったが、城戸は北川さんから、木島は契約まで済ませていて、本気で出ていく決意をしていることを薄々承知していた。
言葉にならない感情が、風に吹かれた砂利のように胸にたまり、窒息するほど痛い。
城戸はよく静かな夜に目を開けて、身の回りの動静を聞いて、木島の澄んだ浅い呼吸、夢の中で無意識のつぶやき、少しの小さな働きはみんな愛しく、そのため城戸は眠れない。二人はまた一つのベッドで寝るが、もう抱きしめたり話しあったりしなくて、その間には遠い距離が隔てている。城戸が毎日、いつものように料理を作ってテーブルに残している。木島が食べることもあり、冷たくなるまま放置したりして、ゴミ箱に捨てることもある。
城戸は最初の鬱屈から怒りを感じ、今では少ししょげている。木島に怒鳴ってみたり、忠告してみたり、質問してみたりしたが、木島は完全にコミュニケーションのルートを閉じたかのように、他人事のような顔をしていた。
「別に深い意味がないぞ。引っ越しってだめか」
または
「見た通りだ。全部話した」
または
「君は自分の立場をよく考えなさい。担当編集者として、僕を干渉する気?」
ついに木島はそう言い出した。
「もういい!僕にも僕の思うままに生きる権利があるだろう…」
確かに、城戸は思い出した。木島は書くことだけでなく、人を傷つける天才でもある。
恐ろしいことに、城戸は次第にその事実を自分でも受け入れつつあるような気がしてきた。そして、この二年間は幻に過ぎなかったような気さえしてきた。木島が蒲生田の遺影の前で酒を飲み干しながら、自分とここで世俗をつぶして激しく交わるのがじじの最後のリクエストであると呟いた時、木島の悲しい目つきと微笑みに惑わされなく、一切が幻だと心得るべきだった。
目的のある試練から始まり、心にもない嘘に絡み、悪趣味的な満足にみちた関係に、本来、美しく完璧な結末などあるはずがない。目の前にある冷たくてわがままな木島や、支離滅裂な生活こそ、合理的であり、真実である。城戸は頑張って受け入れようとしていた。いつも沈黙して軟弱で、あれらの不条理な運命を受け入れていた以前と変わらない。
しかし、仲介屋さんのホー厶ページを開き、部屋を探しに行こうとするたびに、どこかそわそわして、視界がぼんやりするようになる。無意識の中にまだ僥倖が残っているかのように、現実と最後の格闘をしていた。
屋上で最後の1本のたばこを吸って、城戸はオレンジ色の夕日が少しずつ落ちて、あたりが次第に暮色に包まれるのを見た。まるで心も少しずつ沈んでいき、ある取り返しのつかない空虚が、体中にしみ込んで、凜として刺すような寒さになる。そろそろ使う道がない合鍵をぎゅっと握りしめ、金属の歯を手のひらに深く押しつけても、痛みを感じない。彼はこんな感覚の鈍い人だ。
その頃は、城戸はわざと遅くまで会社にいた。以前のような「ホームシック」ではなく、後輩たちにからかわれていた。北川に、城戸先輩がもしかしてもっとお金を稼いで、木島先生のように大きな家に引っ越すのではないかとからかわれていた。みんなは木島とはただの友達で、仕事のパートナーで比べられる対象だと思っていた。城戸は笑ってみんなのからかいに応じて、ごまかした。
しかし、今日彼はこのがらんとしたオフィスで、少しぼうっとしていられない。携帯電話には誕生日の祝福がどんどん入ってきて、彼は突然とても笑いだした。もともと誕生日を気にするような人ではなかったし、昔は適当に過ごし、彼女がいれば食事くらいは一緒にしていたかもしれないが、たいていは一人で歳を数えて寝ていた。しかし今年の誕生日は、大変馬鹿げただ。ほんの十数日前、木島は冗談めかして、セレモニーなんかが好きじゃないけど、誕生日には別の形でちゃんと祝う、と言っていた。その人はもう覚えていないのかもしれない。そう考えれば、城戸士郎のことについては、そもそも覚えているほど多くはない。
あまりにも突然の変化か。実際には、木島の言うように、なんでも突然だ。人生の重大な出来事、往々にして突然に起こる。
結局、城戸は少しの僥倖を感じながら、中途半端な時間にマンションに戻った。彼はいつもの通りに鍵を取り出したが、ドアが閉まっていないことに気づいた。ドアを開けて中に入ると、玄関に何かが散らばっていて、それが木島の白いシャツだった。思い出が閃き、強力に意識を割く。城戸はショックを受けた。聞くこともなく、寝室から放浪の息づかいが聞こえる。城戸にとって、その声は馴染み深いものだ。それまで、手足を絡ませ、ベッドに、床に、ソファの上に、流し台の上などに、二人はいたるところに汗をかいて交わる時、彼は何度もそのような声を耳にした。
なぜか確認に行かねばならんのか分りなかったが、城戸は重い足を運び、寝室のドアを開けた。ぼんやりとした月の光の中で、木島がベッドの上で半身を反らし、セクシーな曲線を描いており、唇の間で息をとぎれとぎれにしていたが、誰かが自分を見ている気配を感じたか、木島はますます勝手気ままになった。
「うん…あ…あ…そこ…しっかりしゃぶって…ああ!」
彼の声は情欲の豪雨から引き上げたばかりのようで、まだ濡れている。時は軽く時は重く、その婉曲の中に、この上もない悦びと爽快さを暗示している。
彼の長い白い手は今度知らない人の頭を押しつけ、その人は股間にうつぶせになって働いている。吸い上げる水の音が城戸の鼓膜に突き刺さり、目の前の映像が揺らいでぼやけ、今にも亀裂が入り、散り散りになりそうだ。
ドアに立った城戸は、鞄の紐や、木島のシャツ、自分の服の裾など、手にできる限りのものを握りしめていたが、それでも自分は何もないほど卑屈になっているように感じた。
もし、木島が自分の恋人であれば、城戸は裏切られた怒りや喪失の痛みを感じるはずなのだが、木島は城戸の恋人ではない。城戸は痛みや怒りを感じる資格もなく、木島の世界から追い出された喪失感だけが、心臓に重い鎖をくくりつけ、血管筋脈を刃物でゆっくりと切って、血がこんこんと流れてきたような明晰さと鋭さを持っていた。
木島は明らかに城戸の急所を突いたことを知っていた。彼は喘ぎながら首を捻り、口元に軽い笑みを浮かべ、言葉に滲ませた。
「城戸君…帰ったか」
こんなに清冽な愛嬌のあり、城戸を喜ばせる声で呼ぶのは、久しぶりだ。
自分はまだ、帰ったと言う資格があるか、と城戸は言えない。
「一緒に…しようか」
木島は腰を上げて、股の間にある頭をおさえて、他人の息の詰まる音の中で思うまま楽しんだ。 
ずっと後になっても、木島のその言葉とその闇の中をさまようような笑顔がいたる場合に突然ひらめく。平穏な日々でも、晴れ晴れとした午後でも、楽しげな家族の集まりでも、その言葉が記憶に浮かぶと、城戸は寒気がして、PSTD(心的外傷後ストレス障害)を起こす。
木島のマンションから逃げ出した時の記憶は、元に戻せないほどボロボロになった。ただ覚えているのは、自分が走ることもできず、がらんとした街をあてもなく歩いていたことだ。夜中に心が折れて走って泣くのは、この歳の人間のすることではない。
詰まった胸の中には、突き刺すような乱気流が充満していて、息もできず、泣くこともできず、ゆらゆらと崩れてゆく視界の中には、墨色の空に欠けた月があるだけだった。

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