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往く日々と夜(16)(R18)

第十六章 三人称 

作者MiyaNaoki 翻訳sekii

「お断りいたします」
重苦しい沈黙の後、城戸はタバコをもみ消し、社長をまっすぐに見拠えて、硬い口調で言った。
「えっ?なんで?」
人に断られる経験が少なく、特に、従順な城戸に断られることが少なかった水谷社長はひどく怪訝そうな顔をしている。また、失礼な態度をとられて、びっくりした。
「今、手が回らないじゃない?鬼島先生がますます勤勉になって、原稿を催促する必要もなくなったし、あなたのようなべテラン編集者が付きそう必要がない。それに、向こうは何の行事にも出ないし、仕事は簡単だから、北川くんに担当してもらってみたらどう?新人にチャンスでもあげようよ」
「本当に無理です」
城戸は有無を言わせぬ断りを繰り返した。なぜ自分が鬼島先生の担当編集者でなければならないか、どうやって社長を説得すればいいのか、城戸は懸命に考えたが、喉元までこみ上げてくる理由は、どれもみったらしいものばかりだった。
鬼島先生が勤勉になったのは、担当編集者が料理を作ったり、掃除をしたり、コーヒーを淹れたり、アイディアを出したりして、すべてを担当しているから、それはさすがに言えない。鬼島先生は創作するために実験を行い、担当編集者がそれに参加しなければならない、それも言えない。北川のアンパンマンみたいな丸顔が木島の実験に出ると想像するだけで、城戸は鳥肌が立ちそうだ。
「ああ、怖い顔をしているね。一体なんで?それに榛原先生のほうはどうしよう」
社長は、城戸の真顔を指さしてわめく。
「鬼島先生はもともと気が弱くて、親しまないと近寄ることができません。僕とはようやく親しくなって、いまはちょうどいい調子で書いているから、余計なことをする必要はないでしょう」
城戸は混乱した思考の中から、論理的に見える言葉を懸命に整理し、自分のエゴを隠すために、合理的な言葉を重ねる。
「榛原先生のほうは、ご本人様が望まれるなら、両方担当します」
「大丈夫ですか」
社長は信じられなさそうに城戸をちらりと見た。職員として、城戸はしっかりしているし、機敏だし、なにかに固執することが少ない。そこからすれば、鬼島先生は特別のようだ。
「ええ、何とかします」
城戸は背筋をぴんと伸ばし、慎重に覚悟をした。社長が信じられないような顔をしながらも、なんとか頷いているのを見て、ほっとした。
実は、それほど忙しくはない。木島の創作には今ではほとんど手がかからない。手が回復すると、木島はようやく海に戻された魚のように、創作の海を一所懸命泳いで、恐ろしいスピードで、高い質で多様のスタイルの小説を書いている。しばらくの間、担当編集者は単なる生活アシスタントになった。
榛原の指名というやり方に、城戸は多少の抵抗があった。ホスト巡りでもないのに、そんなことをするなんて。そう心の中で呟くと、目の前に横たわる片手に道を遮られ、見上げると、廊下の壁に寄りかかって、指を振っていた人がいる。
「Hi、士郎ちゃん!」
一見すると別人と思えるほど見当がつかないが、その軽薄さは大変目立つ。城戸はこわばった笑顔を作り、怒りを忍んで、社会人らしい挨拶をした。
「あ、榛原先生、お久しぶりです。お越しいただきありがとうございます」
「とぼけないで。独占担当してもらいたいって注文に来たんだ。でも、もう断られたみたいよね」
濃い化粧を落とし、ウィッグを取った榛原は、派手でなくなったが、ずばずばしている。
「深くご信頼頂きありがとうございます。できれば鬼島先生のためにも、榛原先生のためにも、力になりたいと思います」
城戸はちょっといらいらする。わがままで傲慢な作家は何人も会ったことがあるが、これほど敵意がある作家は珍しい。いずれにしても、これは仕事なので、怒りを我慢して腰を低くした。
ふん。榛原はわけがわからなくせせら笑った。
「やっぱり、普通の担当編集者と作家の関係ではないようだね。気のいい士郎ちゃんが仏頂面をするまで。鬼島先生のこと、ますます気になってきた」
「他にご用がなければ……では、また今度」
城戸はごく普通に行儀よく会釈をして歩き出した。
「こっちは好意だよ。あんたも気づいてないだろう。鬼島に影響を与えすぎて、鬼島を台無しにするよ」
榛原の声が後ろから聞こえてきた。クラブを制覇するような派手な声なのに、城戸には耳障りだった。
呪いのような言葉。城戸は一瞬立ち止まった。そこにはなにか運命的な合理性があると感じたが、本能的に無視しようとした。そもそも、そんなことを言った根拠は?馬鹿馬鹿しい!心の中で、否定的な声はきっぱりとしていたが、ぼんやりとした不安は、カゴの中の鳥がうなり声を上げるように騒いでいた。
あの明かりの薄いマンションに戻り、ソファにうずくまって天井を見上げている木島の姿を見ると、ざわめきと寂しさがようやくおさまった。
「休んでいるか」
鞄を置き、背広を脱ぎながら、城戸はのんびりしている木島を見て少し驚いた。ここ数ケ月、毎日帰ってくると、疲れも知らずに仕事に精を出している木島の姿を目にしていたので、のんびりしている木島を見ると、さすがに慣れない。
「書き終わったよ」
木島はまだ天井を見上げていた。その声は遠くから来たようで、部屋の隅々に漂う音楽の音に合わせて聞こえてきた。
「書き終わったか?秘書シリーズ…書き終わったか?」
城戸は急いで木島の前まで歩き、木島の姿を自分の影にいれ、驚きが隠しきれない。
「秘書シリーズ…可愛すぎる年下妻の秘密、痴漢超特急、そして今月の四つのコラム…ゼンブ、無書き終った」
木島は少し顔を上げて城戸を見、口元をすぼめて得意そうに笑った。
うわーすごい!城戸は心の中で、木島の天才ぶりに感心していた。原稿が催促されなくも、さっさと完成する作家って、なんで前から担当編集者とうまくいかなかったのか。感慨のあまり、褒めてもらうのを楽しみにしている顔に、城戸は思わず身をかがめ、その唇にそっとキスをしてしまった。
ふと感じた優しさに、木島は一瞬、気が遠くなった。城戸の唇が乾いていて、タバコの匂いがして、自然でワイルドな味わいだ。木島は思わず吸いたくなるような気がしたのだが、向こうはほんの少し触れただけで、紳士的で律儀だ。かすかに開いた唇は、それを追う間もなく、孤独に冷たくなっていった。木島は少し物足りなくなって、コップを取って水を飲んだ。 
「じゃあ…何日休もうか」
城戸はまったくさっきの木島の未練に気づいていないようだ。それより、彼にはもっと現実的な心配事があるのだ。例えば、晩飯の問題。彼は台所に入り、勤勉すぎるわが作家をねぎらうために、何か特別な料理を作ろうと考えていた。
時々、城戸は不思議に思う。木島が料理にはほとんど手をつけないのに、家の中にあれほど家電製品が揃い、入手困難な限定版の包丁まであるのはなぜなのだろう。もしかすると、かつての木島には婚約者がいる?それとも、求婚者からの贈り物だったのかもしれない。また、テレビショッピングに夢中になっていた証拠かもしれない。木島がどんな気持ちで、今同棲している自分にこれほどの便宜を図ってくれたのか、城戸はわからないが、ただ、毎日料理をして、木島に献げている。
城戸もちょっと考えていただけで、真剣に詮索する気にはなれなかった。二人の間にはお互いの知らない時間があり、その間、城戸はこの若くて有望な同級生のことを時々思い出していたかもしれないが、木島は城戸士郎の存在をまったく知らなかった。聞き詰めたら、逆に自分の取るに足りなさが際立つ。
「今、ちょっと考えたけど、次の本は、書き方を変えようかと…」
さすがに飲めば飲むほどに水は冷えてきて、木島はうんざりしてコップを戻した。彼はどうしても酒が飲みたい。特に長い時間執筆活動を続けなければならない時には、アルコールは彼を興奮と活発をもたらすが、城戸の警告も忘れなかった。気持ちよく飲めないときは、アルコールへの欲求がますます大きくなり、意識が朦朧としたり、体がだるくなったり、血の流れが滞ったりすることがある。
「どうした?元気がなさそうだよ」
木島の様子に気づいた城戸は、まるで人妻のように、あわてて塩漬けにした鶏肉をオーブンに入れて、エプロンで手を拭いてから、木島のそばに寄ってきた。木島は可愛くておかしい城戸の様子を見て、体の中でわめいていたアルコールへの渇きも、少しおさまってきた。
「いえ、お腹がすいている」
城戸に余計な心配をかけたくなかった彼は、タバコに火をつけた。タバコでアルコールを忘れようとしたのだ。
「ええ、すぐできるよ」
オーブンの合図を待っている間、城戸は、淡い色の唇が青白い煙を吐いているのを見て、喉がカラカラでかゆくなった。彼は軽く空咳をしていたが、さっきぱたりと途切れた話を思い出した。
「さっき、書き方を変えるって…」
「ああ…今までは三人称で書いてきた。一人称に変えて書こうかと思って」
木島は少し顔を上げ、虚しいどこかを見てつぶやいた。
「そうか…」
城戸はしばらく考え込んだ。確かに、この業界の作品は、特に文学批評らしいコメントを得ることもなければ、深い分析も少ない。しかし木島の一番の愛読者として、木島の観察について常に興味を持っていた。彼の描く人物やそれを読む読者は、きらびやかな文字で遊んでいるが、その語り手は冷静で孤独だ。彼はすべてを見据え、語るが、干渉したり関与したりしない。冷淡な態度をとっているが、疎外感がない。彼は人物の運命の発展、彼らが愛のためになにか逸脱な事をするかをあんなに熱心に観察して、注目して、まるで彼自身でさえ知らないようだ。
三人称、全知全能の神視点。小説創作において、創作者が権力を完全に握る。三人称をとることによって、身分や作品のジャンルが変わっても木島の孤高なプライドが動揺しないと城戸が知っている。
「どうして…急に変えるか。…ああ、熱っ!」
城戸は焼いた鶏肉やマッスルルー厶を取り出した。木島がその独特のスタイルを簡単にあきらめるとは思えない。
「別に…そう考えただけだ…」
木島はそう呟いて台所に出てきて、何か作ろうとするようにきよろきよろしていたが、指が皿に触れる前に城戸につまんで止められた。
「動くな!熱いから!座ったままでいい」
城戸のつまみは木島の心を打った。木島はぎっしりとした優しさに従い、まるで呪いにかかったかのように、おとなしく食卓に着いた。
城戸はまだ準備に追われている。漬物を切ったり、前日作ったカレーを温めたりと、次々とテーブルに運ばれてきた。二人にしてはかなり豊富な料理。木島は忙しい城戸に感心して、さっきの話を続く。
「一人称で書いたほうが、もっと没入感があるよね。もっと直接的に感情を刺激してくれる。あんたが持ってきてくれた本をいくつか読んだが、売れている本は一人称が多くて」
「オナニーしやすい、ということですか」
城戸はお皿を置き、食卓に手をついて、木島を眺めていた。目の中にいるこの人は、怨恨から思考して、ついに安堵した。
「意見を聞かれるなら、変わらないほうがいいと思う。木島は自分のスタイルでいいんだ。流行とか、他の人がどう書くかなんて、そんなことは気にしなくていい」
城戸の口は真面目で、いかにも担当編集者といった感じだ。
木島はまた感心した。感動されやすい体質かと思うこともあるが、違うようだ。自分の作品が好きだとか、もっと書いてもらいたいとか、自分の好きなように書けばいいというような話はごく普通だが、城戸から言い出すと、木島の心は打たれた。不思議なことに、城戸はごく普通の人間で、別に奔放に生きる異端児ではないのに、自分に対しては理解と寛容があり、しかもそれは迎合ではなく、本当に理解してくれるのだ。
「それから…寒いなら、ワインは少し飲んでもいいですよ。飲み過ぎ禁止、それに、僕が立ち会います」
城戸は口元をほころばせて笑ってシールの貼られたワイン棚にワインを一本とグラスを二つ持って、自分と木島の両方に注いだ。
暗い赤色のワインは暖かい黄色い灯りの中で、ほろ酔いの光をきらきらと光り、木島の白い顔と澄んだ目に映り、ある種の色気がある。木島は唇の端をつりあげて、城戸とグラスを合わせた。チーンと音がした場面はとてもロマンシックだが、口にした言葉は城戸をチクっと刺した。
「そういえば、最近、立ち会う時間が減ってきたようだね」
ああ、どう返事すればいいか。城戸は一瞬体が固まった。自分のためらいで木島に傷ついたのを思い出し、何事も隠さないほうがいいような気がして、ワインをすこしずつ飲みながら自白した。
「社長から推薦された作家がいる。おれも一緒に担当するになった。今年の重要な新人作家として、そろそろ登場させてもらうので……ちょっと……用事が多いんだ」
「そう……新人か……気を使うわけだね」
木島は目を細めて呟いた。そして箸でキノコを刺して、中に細かく入っている、カリカリに焼いた鶏肉を、じっくりとかじった。
城戸は、彼の言葉の中にからかいと挑発的なものを聞き取っていたが、怒らない。彼はもう馴れていて、しかもマゾヒスティックなほど好きだ。自分は木島に何かの呪文をかけられたかのようだった。全然仕方がない。
夕飯のあと、木島は珍しく書斎には籠らず、本を持ってソファの上にうずくまって読んだ。灯りが木島の頭に照らして、光の輪ができて、まるで天使のように見えた。城戸は水槽の前に片付けながら、あの油絵のような場面をちらちらと見ていた。避けようのない好きな気持ちと手の届かない疎外感が混じり、複雑な気持ちになる。
城戸が食器を洗い、テーブルの上を片付け、ゴミを分別し、散らかった本を整理し、ようやく手が回ってきた頃には、木島は本を握ったままソファの上でぐっすり眠っていた。木島はいつも静かに、少しだけ内側に身を縮めて眠っていたので、どこか寂しそうに見えた。
城戸はソファの前にしゃがんで、しばらく彼を見入っていたが、痴漢みたいだなと自嘲気味に笑い、いつものように部屋まで抱いて行った。木島はこのごろますます軽くなった。なぜだろうかわからないが、城戸はずいぶん世話をして食事に精を出して、細かいところまで気を使ってあげたのに、木島は孤高で寂しそうに生きる様子を見せている。とても不思議だ。
彼が木島の痩せた背中を持ち上げると、寝ている木島は何も知らずに手で城戸の首を回し、顔をぴったりと城戸の首筋に押しつけて、甘やかされた猫のようにこすりつけた。城戸は木島に必要とされたことを誇りに思っていた。
木島の目に騙された苦しみを見た城戸は、良心からの咎めに耐えられず、合理的に見える状況を自らで打ち破り、すべてを放棄して、木島とこのマンションに閉じこもることにした時、ある決心をした。木島が必要とする限り彼はずっとここにいると。
彼もはっきりわかっている。この付き合いは一時的なものだ。木島が再び自分の凡庸で暗澹たる本質を見抜き、自分の垢だらけの心を嫌うようになったら、自分は潔くすべてを片付け、つまらなく信念のない、木島のような天才に見下された人生の道に戻る。城戸はその日が来るのを警戒している。
しかし人間という卑怯な生き物は、忘れっぽく、慣れやすい生き物だ。木島とこうしてしばらく一緒にいると、警戒心もますます緩むようになった。今もそうだ。城戸はベッドのそばに座って、安らかに眠っている木島を見て、目でその輪郭を描いているうちに、突然、このような生活は長く、いえ永遠に続くこともあるととても心にもない信じたくなる。それらの無常は、妄想の裏に一時的に押し込められた。
深夜、木島は目を覚ました。静かな暗闇の中で何かを考えていた。さっきはとてもつらい夢を見ていた。幼い頃父親との確執と関わったようで、細かいことはよく覚えていないが、出ていけ、この犯罪者という父の掠れた罵り声がはっきり覚えている。犯罪者か。あの暴れん坊じじの言うとおりかもしれない。気持ちが冷めた木島は小さい犯罪をしたくなった。
城戸がうとうと眠っているところに、冷たい腕が伸びてきて、パジャマをたくしあげ、腰に巻きつけ、背中を撫で、股間まで移動して、軽くてまた強く挑発していた。無言だが、辛抱強く呼び覚まそうとした。
目がさめたら、城戸はいつたっても木島の手が冷たいなと心配するようになった。次の瞬間、彼は木島の望むように寝返りを打って、邪魔者の木島を体の下に押しつけ、熱くて硬い肉棒は、木島の下半身に押しつけられた。明かりも音もない部屋の中で、彼らは熱い視線を向け合って、最も直接的な生理反応で意思疎通をした。
「ねえ、ちょっと聞くけど、新人作家って、どんな人?」
木島はゆっくりと口を開き、吐息が城戸の鼻先を撫でた。
訊かれた方はちょっと苦笑した。まさかこんな質問に答えてもらうために夜中に挑発されたとは思ってもいなかつた。それに、木島がそのことを気にしているとも思わなかった。
「ちょっと…変な人ね…」
頭がぼうっとしていたので正確な表現はできなかった。下半身が充血していて、考えにくい状態だったし、まして木島は腰を上げて、体で向こうに触っていた。
「変な人か…城戸は変な人に人気があるね…」
木島はごく自然に、細い脚を上げて城戸の腰に巻きつけ、その興奮した肉棒を、パジャマ越しのタイトな隙間に押しつけた。
「ああ…光栄だと思ってもいいか、先生」
城戸は下へ体を下ろし、わざと木島の耳元で空気を吹く。
力いっぱい木島の腰をつかんで、あまりの強さに木島は悲鳴を上げて、くつくつと笑って。避けても無駄で、木島は自分の深夜の挑発に代価を払わなければならない。城戸の唇が降りてきたとき、彼の暗い夜の花のように、ずっと噛んで真つ赤になった唇がかすかに開いた。数時間前の、あの物足りないキスの返しだ。
 
鬼島蓮二郎がちょっと気になっていた例の新人作家に会ったのは、それから三ケ月後、桃水社の例の色々あった会議室だ。
木島は不本意ながら、半年間も積もったサインの債務を返そうとして、本の山に没頭していた。続けざまに何十冊もサインしているうちに、腕がきつくなって、休もうかと身を起こしていると、ドアにもたれかかっている、ある派手な男が目に入った。ピンクの髪にセーラー服?やっぱり桃水社に出ているのはみんなただものではない、と思った。
その人はのんきそうに笑って、木島に向かってタバコを挟むような仕草をしてから、屋上の方を指差した。木島は行きたくなかったが、なんとなく城戸の「ちょっと変な人」という言葉が頭をよぎって、そのままついていってしまった。
「はじめまして、榛原です。士郎ちゃん、今は僕の担当にもなります」
榛原は木島にタバコを差し出した。彼の声は透き通る。たとえ屋上の風の音が強くても、木島には彼がわざと「僕の」と意味ありげに発音しているのがわかった。
彼は榛原のタバコを断り、自分のタバコに火をつけた。気むずかしそうな同業者が、自分に何を言いたがっているのか、なんとなくわかったのだろうが、他人のことを気にする余裕もない。
「ああ、いいじゃないですか。城戸君はいい編集者ですよ」
木島は淡々と答えた。
榛原はその冷たさにたじろぐことなく、ますます興味津々の様子で攻めてきた。
「士郎ちゃんと鬼島先生は、うまく連携していますね。ねえねえ、同じ担当者だから、携帯番号交換して、今度士郎ちゃんと三人で一緒にコーヒーでも飲んで、執筆の話とかしたらどうですか…」
女子高生の雑談会か?木島は心の中で白目をむいたが、軽蔑するような冷笑をこらえ、二歩下がって距離を取り、素っ気なく態度で答えた。
「すみません、携帯電話なんか持っていません。執筆の相談があれば手紙を書いてください。出版社まででいいです。城戸君が受け取ってくれますから」
榛原は何か秘密に気づいたかのように得意げに笑った。が、目の前にいるこの官能小説家は、冷たく孤高に見えるが、実は恐ろしいほど独占欲が強いだろう。自分の突然な思い付きで、官能小説に移し、あらゆる手段を使って桃水社と出版契約を調印する甲斐があったと改めて思った。
木島は笑いを含んだ視線の中でタバコを吸い終えると、全身がピンク色の菌に囲まれているような気がして落ち着かなくなり、立ち去ろうとしたが、図々しく引き止められた。
「ねえ、蓮ちゃん、はい。うちの割引カードです。暇あったら来て。割引しますよ。」
木島はその悪魔のような呼び方にまた不快感を覚えたが、断りが苦手な性分で、そそくさとその名刺を受取った。香水の匂いが漂って来て、鍵のように、記憶の窓を開けた。その晩、城戸が帰ってきたときについていた匂いだ。その日、城戸が会いに行ったのは、この人だったか。
「蓮ちゃん…」
あの少年のような元気な声が、背後でまた何かをした。木島は足を止めることもなく、勢いで城戸に何かを聞こうとした。
背後の声が急に低くなり、光を放つ太陽が一瞬にして厚い雲に潜り込んだかのようだ。
「はいはい、鬼島先生、これからもよろしくお願いします。士郎ちゃんとの次の作品を楽しみにしていますよ!」
やっぱり変だな。この人は憎らしく、危ない。嫉妬屋のようにあれこれ憶測したり、疑ったりしたくはなかったのだが、城戸のまわりにはそういう人がいるなんて、気になって仕方がない。
強烈な嫉妬は快感を誘い、本心を隠し、生き生きしてやる気がみなぎっていると感じさせる。要するに、生活必要品である。

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