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往く日々と夜(21、終)(R18)

第二十一章

作者MiyaNaoki 翻訳sekii

「おい城戸!彼女ができたって!」
社長の大きな声は、数十歩の距離を置いて、会社の廊下に響き渡った。一瞬、人々は城戸に注視するようになった。城戸は、壁の隙間にでも入りたいほど恥ずかしい。しかし、社長は城戸が困っていることにも気づかず、大股で歩いてきて、豪快に肩を叩いた。
「いいぞ、坊や!両手に花じゃ!鬼島先生の本が25万以上のベストセラーになって、君自身もやっと恋愛運に巡られた。めでたし、めでたし!」
その二つのことを併せて言われて、あまりに皮肉のように聞こえて、城戸は顔を上げられない。社長の情熱的な腕に押されて、顔を上げることもなく、恥ずかしい顔を見せなくて済んだ。こわばった顔でなんとか相槌を打ち、社長を満足させてオフィスに戻り、人々の注視の中を歩いていくうちに、顔の表情筋がコンクリートの塊になって固まっていくのを感じた。
「そうか……城戸君は彼女ができたんだ。先月の合コンで知り合った女の子か」
編集長はようやく分かったようで、ついにいろいろ聞く。
「ああ…いえいえ、実家の親戚の紹介で ……」
 
城戸は実にその話を続ける気になれない。合コンや恋愛や結婚の話は、このゆったりしたオフィスではよく出てくる話題だったが、彼の場合は複雑で、心にもない話ではみんなに満足できなかった。
あの顧みるに忍びない夜以来、城戸は木島のマンションには戻らなく、荷物を取りに帰ることもできず、数週間会社に泊まった後、ようやくシングル向けのマンションを借りた。多くの合コンに紛れ込み、自分の仕事に対する女の子たちの軽蔑と好奇心に満ちた声を聞いては酒に没頭して酔いを覚まし、淋しい部屋に戻り、うとうとと寝て、翌日はいつものように朝起きて通勤していた。多くの知らない女性と接しては忘れて、感情に触れるようなことは何も考えず、平穏に暮らしている。
ある晩、彼がうとうとと酔って寝ていると、母が珍しく落ち着いた口調で電話をかけてきた。彼女は自分の病気のことを知っていて、わざわざ延命治療をする気もないし、城戸に仕事をやめて戻ってきてほしいとも思わなかったと告白した。
「士郎、あなたがつらい思いをしているのはわかっている。でも、人々は他人の苦しみに同情はしない。その代わりに、あんたの苦しみの上に、何度も足を踏み入れるだけということを、私はよく知っている…あんたは逆流と戦うのが得意な子ではないから、お母さんは、せめて流れに乗ってほしいと思う」
電話を切ったあと、城戸は硬いシングルベッドの上でぼんやりと天井を眺めていた。いろいろな思い出や想像が、対抗できない時間の流れの中をゆっくりと遠ざかっていくのを感じた。
数日後、母親から一人の女の子の写真と連絡先が送られてきて、前の教え子で今も東京のある小学校の先生で、連絡してみないか、と言われた。ずいぶん迷ったあげく、そのあいだに木島に電話をかけてはっきりと話しようと一瞬だけ勇気を出したこともあったが、携帯電話をしばらく握っていて指が痛くなるまで、緑の電話キーを押さえなかった。結局、母親に分かりましたと返事した。
城戸はあの女の子と駅の近くの喫茶店で待ち合わせをした。彼女は写真の通りに物静かで優しくて、笑顔が温かい。典型的な博多美人で、先生らしい。知り合いからの紹介だったので、自己紹介をする手間も省けたし、説明しにくい仕事について紹介する苦労もない。ただ、そんなことを言わなくてもいいから、二人とも最初は堅苦しくてあまり話をしなかったが、女の子が家の近くの川のことや、公園のことや、学校帰りに通った野球場のことや、そこに子供の頃に伝わった近所の話をしているうちに、次第に会話が弾むようになった。駅まで見送り、別れをするとき、女の子は、また会えますか、とたずねた。数秒迷った後、城戸は頷いた。その後も何度か会ったが、いつも外で食事をしたり、コーヒーを飲んだり、たまに街を歩いたりしていた。彼女も彼の葛藤や重苦しさを感じ取っていたのか、自ら話題をだして、会話を気まずくならないようにしてくれた。それは城戸にとってありがたいし、余計に申し訳ない気持ちもある。
数日前も、女の子を丁寧に駅まで送って、踵を返したところ、スーツの裾が引っ張られた。女の子は顔を真っ赤にして、もう少し一緒にいてくれませんかと訊ねてきた。彼はしばらく黙っていたが、断る言葉は何も出てこなかった。
足取りが重く、目がきらめいて、寂しそうな顔をしながら、ぼんやりと散歩をした後、女の子は彼の腕の中で、恥ずかしそうに目を閉じて、上に少し仰向けになって、ある種の儀式的な肯定を待って、ゆっくりと加熱の燃焼の中で、彼女は震えて求める。
「城戸君、私の名前を呼んでくれますか?一度でも、私の名前を」
彼の心の中は一瞬空っぽになり、ただ凄まじい風の音が渦巻いているだけだ。城戸は気弱そうに、また、経験の少ない正直者のように、歯切れの悪い声で、リオと呼んだ。
彼女の名前は、山下梨央だった。城戸はこれまで、彼女のことを苗字でしか呼んでいなかった。
二人はその後も何度か会って、世間的には恋人のような関係になっていたので、それを知った母は、それ以上は何も言わず、ただ親切にするようにと言いづけたが、城戸には、母がほっとしたように聞こえた。
山下梨央との結婚は何のロマンチックなところもない。城戸にとって、更に無実の人を欺く罪悪感がある。現実を踏まえたお見合いでも、多少はお互いに好感を持っていなければならないが、彼は最初から、あまりにも明確な目的を持っている。すなわち、何かを捨て、何かを忘れ、何かを隠し、何かを終わらせるためだ。動機が複雑で不純だから、彼は不安だ。一目惚れて恋に落ちるなんか、彼にとっては、もう前生の古い言葉のようで、風化して散ってしまった。彼の恋、言い換えれば恋ともいうべき強烈な感じは、昔の匂いが染み込ませて使い古された白いシャツのように、他人の上にさりげなく羽織ることはできない。新生活をスタートために、新しいシャツを買い、嘘をつくことができるが、人と気軽に話をするのはとても恥ずかしい。
 
幸い、編集長は社長ほどゴシップに熱心ではなかったので、城戸が困ったような顔をするのを見て、すぐ話題を変える。
「そういえば君、最近、鬼島先生のところには行っていないよね」
「ああ……そうですね。榛原先生は最近、新しい本を出しているんでしょう?そちらのほうで忙しいんですが…」言い訳のようだが、実際はそうでもない。たしかに、城戸はこのところ毎日忙しいが、それは、木島の噂話を聞く暇がないためにスケジュールをいっぱい詰める。また、人々からの鬼島先生の大ヒット作の祝いをさけたい。
「鬼島先生にちょっと気をかけたほうがいいよ。北川さんから聞いたが、鬼島先生は調子がおかしいって」
編集長は眉をひそめて彼を睨んだ。
「同時に二人の作家を担当すると言い出したのは君でしょう。鬼島先生がこんなに売れてるから、他社に引き抜かれないように気をつけて」
「あ、はいはい。明日お伺いします」
城戸はまるで自動応答機のように標準的に対応していたが編集長のおかしいという言葉で心配するようになった。おかしいって、どうおかしいか?どれほどおかしいか…
ここ数ヶ月、城戸は木島のところには行っていないし、電話もかけていない。原稿のチェックはまだしているが、日々のやりとりは北川に任せている。最初はうまくいってくれないかと心配していたのだが、意外にうまくいく。北川さんも最初は木島に怯えていたのだが、今では木島にすっかり惚れて、二日に一度くらいはオフィスで、鬼島先生は文章力が優れるだの、雰囲気が強いだの、魅力的だのと褒めている。
城戸は心の底から湧き上がってくる辛さの正体を深く考えたくない。木島理生は自分がいなくても元気にやっていける。それは前からの予想の通りの事実だ。ただ、これほどはっきりな事実になると、やはり苦しい。
しかし今、木島は様子がおかしいと言われた。それを聞くと、その間必死に押さえつけられていた心配が、満潮のように湧き上がってきた。木島はちゃんと食事をしているか。体はどうか。やはり毎日のように飲みに出かけているか。この間の人と、または誰かと一緒になったか。それとも、拒まず、責任も取らずに、相変わらず淫らな生活を楽しんでいるか。
自分は木島が望んだように、あの幻の楽園を去り、平凡な生活に身を投じているから、そろそろ、責任のある編集者のように木島に気を遣ってあげたら、と城戸は思っている。それは編集長からの仕事でもある。
しかし、思ってもみなかったことに、木島のほうから電話がかかってきたのだ。それは城戸がバー・エロスのカウンターで、周囲を無視して榛原と新刊の契約の話をしていたところだが、突然着信音が鳴り、表示された名前を見た途端、城戸は携帯電話をもてないほど緊張になった。
おそるおそる声をあげると、むこうから女の声がして、あわてふためき、しどろもどろになって、悲鳴をあげていた。
「城戸さんですか。あの…彼の携帯には、この電話番号しか入っていないから、助けに来てくれませんか。怖いんです。木島はいきなり、ぜひ…ぜひいらしてください。住所は……」
城戸には何が起こったのか正確にはわからなかったが、明らかにまずいことだったし、木島が関係していることは明らかだった。心の鼓動が急に速くなり、頭の中は溶鉱炉のように熱く混乱し、城戸は女の告げた住所を必死に覚え、カウンターの上の契約書を受け取ると席を立った。
「ちょっと待って…急用ですか。車で送ります」
榛原が引き止めた。
「ああ…おねがいします!」
榛原とはそこまで親しくなったわけではなさそうですが、いざというとき、車はないよりはあったほうがいい。
幸い、女性が教えてくれた住所までは、車で20分ほどの距離だ。城戸は車が完全に停まらないうちに、出ようとした。ドアのところに「木島」という表札が見えたとき、心が氷の湖に落ちてしまった。なるほど、ここが彼の新しい住まいだった。では、あの女が言っていた、助けるというのは?
真実は想像する必要がなく、直接目の前に現れるのが一番残酷で衝撃的だ。がらんとした一軒家の玄関が開いていて、酒の匂いのするリビングに入ると、積まれた段ボール箱の向こうから、まるで殺人現場のように、裸の細い足が見える。息を殺して早足で歩いていくと、木島はシャツ一枚だけを着て床に倒れている。久しぶりに見たので、城戸は目がちくりと痛んで、心臓が止まりそうになった。
木島はくしゃくしゃに皺を寄せた白い紙を無理に広げたような薄っぺらそうな顔をして、いつも明るく澄んでいたその目は、今ではまるで生気がなく、口の端や襟には暗い赤い血がこびりついて、胸だけがかすかに波打って、生きていることを証明する。城戸は、息を吸うことができなくなり、血が凍りつき、体が硬直したのを感じたが、胸は鋭い刃物に切られたように痛む。
「木島!木島!」
城戸は大声で叫ぶが、腕の中の人をゆさぶるのをしない。そっと抱きよせただけで、おそろしい冷たさと戦慄を感じた。
だめだ!それはだめだ!木島を助けなきゃ!と思いながら、城戸はコートを脱ぎ、木島を丁寧に包み込んで抱きあげ、頭を肩にもたせかけ、体をぴったりとくっつけて、木島の呼吸と鼓動を確認した。城戸はとても恐かった。もともと軟弱な人間で、言われた通りにして、大人しくしているように見えたのは、それまでに彼が気になったり恐れたりするようなことがないからだ。だが、いまは、その恐れることが起こった。
木島理生を永遠に失うか?いや、そんなことはありえない。城戸はそれより、自分が死んだほうがましだと思う。
 
城戸は病院が嫌いだ。幼い頃、父親が仕事中に大きな事故に遭って重体になり、母親に連れられて姉と一緒に最後の見舞いに来ていた。当時は幼くて、何が起こったのかさっぱりわかりなかったが、父は全身包帯に包まれていて、優しい顔がすっかり変わっていて、ひょいと差し出された手は震えながら城戸に向けたが、城戸は怖くて避けた。
その後、父の記憶は次第に薄れていったが、最後な姿だけははっきりと覚えている。また、父の手への回避のために、自分を責めることもしばしばだった。それは彼の愛する肉親にとって、この世に残された最後の慰めであったにもかかわらず、彼にはそれを与える勇気さえなかった。
その惨愴たる白いシーツ、それらの汚れた白い包帯のせいで、城戸は病院が嫌い。病院へ行くたびに、城戸は抑圧されて、息苦しく感じる。
 
今、木島が手術室に横たわっている。このことが重くて、城戸は対面したくない。どこの神さまにお願いごとをすればいいのかもわからなく、お願いごとの言葉も思いつかず、ただぼんやりと指についた茶色い血を眺めていた。 
それはさっき木島を抱いた時についただろう。木島の体から出た血は、木島が傷つけられ無視された結果で、自分の罪だと城戸が思う。どうしてこんなことになったか。城戸は、自分が血を流して死ぬよりも、胸に矢が刺さって死ぬよりも、一万倍もつらい思いをして、重くうなだれた。
「一服しませんか」
榛原が来て提案した。彼もそのあまりの悲愴な重苦しい空気にはさすがに耐えられなかった。
顔を上げた城戸の目は血走っていて、魂を抜かれたようだった。しばらくぼうっとしていたが、ようやく口を開く。
「ああ……」
二人は廊下の突き当たりにある小さなテラスで、少しきりっとした夜風に当たりながら、無言でタバコに火をつけ、ニコチンが神経をほぐしてもらい、リラックスした幻覚を作り出してもらった。
「今日はありがとうございました、榛原先生」
城戸はしばらく黙ってから、やがてそう言った。話すことは何もないし、木島とのことは誰にも話せなかったし、話したくてもうまく説明つかない。
「おお…心配しないでください。大丈夫でしょう」
榛原も話の流れに乗って慰める。木島が彼のお店に行ったことがあることなど、性格上、城戸に隠すべきではないが、木島と他人に言わないと約束をした上で、あえて城戸には言わなかった。
二人が黙ったまま四本目のタバコを吸っていると、廊下から看護婦に呼ばれて、城戸は急いでタバコを消して駆け出した。二歩駆け出してから、あとは俺一人でいいから、榛原先生は早くお帰りになってくださいと振り返った。
「そうですね。用があったら電話してください……」
キャバクラのママさんで官能小説家の榛原が、人間とこれほどまともな会話を交わすのは珍しい。駆け寄って看護婦に急き込んでいる城戸さんの姿を見る目には、感動と羨望がある。
そのまま行けば木島を滅びるよって、前から君に言ったよねと、榛原は心の中でつぶやいたが、言葉になれず、ただ長い息で煙を吐き出した。
「まったく、馬鹿なんだろう」
 
木島は自分が冷たい深海に沈んでいく夢を見た。血が一段一段と固まり、皮膚が硬く脆くなっていくのを感じたが、それはさほど苦痛ではなかった。暗闇と寒さは終わりがなく、その中で彼は消えていった。これは自然で美しくて、彼は抵抗しなくもがかない。突然、ある手が必死に木島を引っ張った。その手は肩や腕、指まで引っ張って、寂しい空虚の中で、一所懸命彼を救い出そうとした。そうして、木島が悲しさの中で眼を覚ますと、枕元には、燦々たる陽光が射している。うとうとしているうちに、光を回避する本能のために、向こうへ頭を動かすと、そこにもう一つ頭があって、自分と寄り添っているのを発見した。
匂いだけでそれが誰なのかわかるし、慣れすぎた体温と呼吸も懐かしい。その時はあまりにも落ち着き、全てを忘れさせた。ただ、なぜか木島は引き寄せられ、近づき、あの人と一緒に日の光の中に横たわっていた。
あまりにも長く眠った彼は、明るい環境に慣れないが、目を閉じるのを惜しむ。このしばらくの親しみに、どれくらい会っていないか、なぜこうなったのかを考えずに、ただ、感情的に近づいていくだけだった。
木島の気配を察したのか、城戸はふと目を開けて、自分を見つめている木島の目と合わせた。ある瞬間、二人は静かに見つめ合って、口を開かずに相手の言わんとした言葉を瞭然したようだ。呼吸が植物の巻きひげのように絡み合い、唇が暴走しそうに近づいてきて、現実を超越したほんのわずかな時間の断片の中で、ふくらんだ細部が現実を離れて夢になった。誰かが先に目を覚ますまで。
木島は相手の目の迷いを敏感に察知して、それに従い二人の距離を取り、話を逸らした。彼は眉に皺を寄せ、どうにか体を起こした。病人は、いったん体を動きだすと、体の消耗をはっきりと感じ、まるで解凍されたばかりのように、すべての関節が冷たく硬直している。
木島は自分の腕についた赤紫の注射の跡を見下ろし、呆然とあたりを見回してからようやく基本的に合理的な判断をくだした。
「ここは…病院か?」
彼は頼りなさそうな目を、ベッドのそばにいる城戸に向けた。
「君、どうしているんか」
城戸は頭を下げて木島を支えて、枕を取って、彼を寄せつけた。
「それはあなた自身に聞くべきだろう。お前は一体どうしたのだろう…胃が出血するほどのお酒を飲んで、それに知らない人から電話がかかってきて、怖かった」
城戸は昨夜の場面を思い出すと、話が落ち着かなかったが、木島のぐったりした様子を見ると、これまでの粗末な態度と油断が気にかかり、咎める気にもなれず、声をひそめて虚勢を張り、徹夜したせいで声もかすれているのに、少し悲壮感があった。
木島は城戸のしわがれ声にすこし感動した。今の状況を見ていると、さすがに弁解のしょうもないような気がした。彼もあれらの詳細を聞くのがおっくうになった。記憶の中で残存する画面は混乱で楽しくなく、人を悩ませる。城戸がここにいる以上は、自分の最悪の姿も見られていることだろうから、この間苦心してわざと疎外感を作っていたが、急にそれがばかばかしく感じた。
彼は少し気が抜けて、疲れていたから、ベッドにもたれて、だまっていた。
「お腹すいたでしょう」
情にもろい城戸は木島のいかにも寂れたような可哀想な様子に心を打たれた。
実は、城戸は明け方に帰って薄味の味噌汁を作り、また魔法瓶で病院まで持ってきた。まだぬるあつい。城戸がそれをベッドの脇にあるテーブルに置いた。湯気の中から、木島は過去のー瞬を幻のように見た。彼は味噌汁をもちあげて、まるで壊れやすい昔をもち上げるように、自分の鼻の先や目と心の全てをこの親切な暖かさの中に浸す。
「木島、俺は…俺は真剣に話しがある」
味噌汁を飲むときは、心をこめて人に勧める良いタイミングだ。それについて、二人とも経験がある。木島は横目で城戸を見て、視線をまた味噌汁のお椀に戻し、おずおずといった。
「絶交する…か」
「違うとも!」
城戸はもちろん、それはわざだとわかっていたのだ。この時になってもなお、ふざけている気があるのか、思わず大声で否定し、ここは病院で騒ぐことは禁じられていることに気づき、ため息をついていた。
木島は口を引き結び、眉を上げ、上目遣いに彼を見た。
「なら、説教だろうね」
「本当にそんな風にお酒を飲んではいけないよ。今度は危ないとお医者さんに言われた」
城戸はベッドの縁に腰を下ろして、生真面目な顔をしていた。木島にはわかる。城戸は本当に自分のことを心配して、本当に焦っている。しかし、なぜか、城戸がそうすればするほど、木島は心が乱れてくるような気がして、身動きがとれなくなり、体の中に突き刺さるような痛みが込み上げてきて、思わず呻き声を上げ、胃を押さえて体を丸めた。
「どうした?」
城戸はまた緊張して呼び鈴を押そうとしたが、木島に引っ張られた。
「大丈夫…久しぶりの食事が刺激になった…かもしれないが……もう…もういい……医者を呼ばなくてもいい」
木島は青ざめた顔で、懇願するように城戸を見つめた。
今は誰にも邪魔されたくなかったし、城戸とこうして二人きりになるのは久しぶりのことだった。今の二人の関係からすると、もってのほかの思いだったが、城戸はそれを悟ったのか、ボタンにかけていた手をゆっくりと戻し、慰めるように掌で木島の額や頰を撫でた。
木島は優しく撫でられているうちに、ゆっくりとリラックスしていった。さっきの痛みは、ストレスのせいかもしれない。
「また助けてくれたんよね」
木島は笑う。
城戸は真剣な顔で彼を見ていた。指は離れるのを惜しむように、木島の髪の毛先に触れていた。これまでずっとつきまとっている虚しさと迷いが、この瞬間にはすっかり消えてしまって、木島のそばにいるとき、彼は久しぶりに自分が真実に生きていることを感じた。
木島は少し衰弱で、目を閉じたまま、言葉で少しずつ現実に裂け目を切り裂く。
「君、彼女できたって?」
「……ええ」
城戸は、木島に訊かれたらどう答えようかと何度も考えていた。それを練習して、ほとんど筋肉の記憶になり、落ち着いて答えるつもりだったが、出てきた声は、やはり心細いままだった。余計なことを言う好事家を憎みながらも、自分にはまるかばつかしか答える必要があってよかったと思う。
「結婚目的の付き合いか」
木島の声は静かで、はるか遠く、風のない湖面のようだった。
「ええ」
城戸は頭を下げて、出した手を引き、恥ずかしそうに合わせました。
「いいじゃないか。やっと立派な社会人になったね…」
木島の淡々とした口調に城戸は違和感を覚えた。その言葉は本来の意味ではなく、軽蔑でもなく、どこか確信のない無念さと怨念を含んでいるようで、見えない千本の針のように城戸の胸から心臓まで突き刺さり、体の中に消えて見えなくなる。
「なあ、木島……」
城戸はまだ、どう説明しょうかと考えていたのだが、木島はそういう言葉遣いを考える余裕を与えない。
「じゃあ、勤め先は変わる?今度は…」
「そんなことはない」
木島は意外にも城戸の反応の早さときっぱりとした態度に、それまで半ば閉じていた目を見開いて、探るように城戸を見た。
そんな目で見られると城戸は感慨深い。動揺しやすい城戸でも、どこか踏ん張りたい部分がある。そう、彼はわざと話の流れに乗って、木島の思い通りにしたふりをしていた。母親が言ったように、川を遡る勇気を欠く。本心を無視していくつもの合コンに行ったが、木島との連絡は切ろうと思わなかった。城戸にとって、木島は天地が崩れる時、体を捧げて守りたい微光である。
懇親会などで、気まずいのであからさまに仕事へのこだわりを見せる必要がないと同僚は勧めたが、城戸はそれを無視して、いつもにこにこしていて、気まずい顔や気難しい顔を睨みながら、いい仕事ですよ、続けますよと素直に言っていた。
「転職はしない、木島。できることなら、いつまでもお前の担当をしていたい」
城戸は今度、平然と木島に向き合っていることができた。
木島はきょとんとしていた。もともとは、いつもの癖で、発言の主導権を自分が握っていて、自分の気の遠くなるようなことを言われないように、あらかじめ想定しておいて、少しずつつかみを取っていくだけだった。これだけの間、城戸からの連絡もなく、仕事の連絡も人任せにしていたので、木島は徹底的な別れを覚悟していたが、城戸の話を聞くと、まるで災難から生き残された幸運を感じる。心と呼吸まで、この取るに足らない喜びのために乱れ始める。
「ああ…じゃあ…よろしく…」
木島は言葉がうまく話せなくなった。このままいけば、心の中の秘密が漏れるかもしれない。
「この前…確かにお前との向き合い方が分からなかった…でも、もう二度と、音信不通になることはないから、今後、何かがあったら、すみやかに俺に連絡して」
それが自分に言える、最も約束らしい言葉ではないか、と城戸は思った。
「ふむ…」
木島は軽く笑いだした。言葉は種子である。思考に染み込み、心を泳ぐと、根が生えてくる。城戸にどんな種を蒔いたのか、まだ知らない。
「僕、本当に面倒な作家だろう?」
「そうだね」
城戸は嘆く。安心できないほど面倒だ、ということは言えなかった。
「今度、私のところに来るときは、仕事を持ってきて」
木島は寝返りを打ち、布団にくるまってぶるぶる震え、世界に背を向けた。嬉しいのか悲しいのか、乾燥剤の匂いのする枕に無用の涙を滲ませた。
木島は知っている。城戸が自分の凧であれば、自分はまた思いきってあの凧の糸を切る勇気がない。それどころか、ついに糸を回し戻し、自分に近づけようとした。それと同時に、自分はまた何かを失っていると木島がはっきり分かっている。それでも、二人には微妙なつながりがある。糸は切れてないのだ。
 
「I can still recall the thrill, And I guess I always will, When the stormy weather brought our worlds together, That November moment…」
曖昧な午後の光の中で、ゆったりとした旋律が流れている。リビングが広くなると、聞き慣れた歌を聴いても、それとは違った感じがする。音はレコードプレーヤーの針が落ちた瞬間に広がるのではなく、空気の流れに乗って、広がって、またゆっくりと耳に入っていく。
「いい曲ね……さすが蓮ちゃん、神様のようにのんびりして暮らしているね」
あきらかにセンスに乏しい客が、てくてくとレコードプレーヤーの前にやってきて、遠慮なくコレクションをめくり始めます。
木島は不服そうに睨んだが、止めることはしなかった。
「何度も言ったけど、そんな呼び方はしないで」
「いいじゃないか、そんなに親しくなったんだから。そういえば、名刺を渡したとき、まさかうちの店に来てくれるとは思いなかったし、2週間にうちのお嬢ちゃんや客達をこき使って、そして体を壊すほど飲んだとは思いなかったから、もういい加減にしたほうがいいか。万が一、士郎ちゃんに知られても、僕は恨まれるよ」 
「まさか来店割引が100円の割引とは思いなかったよ」
木島は軽く煙を吐いて、わざと急所を避けた。
「ねえ、本当にいいか。何も言わずに」
木島はしばらく立ち止まっていた。今のところ最大のライバルで、普段は性別もわからない派手なファッションをしていて、聞き込みが上手い官能小説家である榛原先生がいきなりこんな深みのあるプライベートな質問を投げかけて、困ったことだ。
ただ、話すとしたら何から話すか。夢うつつの未明からか、それとも唇と舌がつきまとう夕刻からか。指を交える月光からか、それとも目の前に残る桜の花びらからか。心の奥底に秘められた人格からか、それとも抑えきれない醜い嫉妬からか。創作という名のでたらめな試みからか、それとも些細な生活の中に流れ去る温情からか。すべての思い出を葬る初雪からか、それとも一寸の春の温泉からか。手首から洗い流された墨の跡からか、それとも背中を舐めて乾いた熱い汗からか。何から始めても、ついには終わらなければならない。
寂しそうな顔をしている木島を見た榛原は、自分の質問が、おそらくろくな答えにはならないだろうと知り、わざと大袈裟にため息をついた。
「ああ、お二人の話で本を書きたくなった」
木島の目つきが一瞬鋭くなった。榛原はぎょっとして首をすくめた。
「冗談だ。でたらめなんか書かないよ」
木島はむっとしたように榛原を睨んで立ち上がり、悠然とキッチンに行ってコーヒーを淹れようとした。コーヒー豆は城戸が前に買い貯めていたものだったが、何度試しても城戸のような味にはならなかった。いくら粉飾しても無駄で、空っぽに存在して、埋めることができなくて、埋めることができない遺憾がある。
先ほどの榛原の言葉を思い出し、自分でも動揺の激しさに少し驚いていた。二人のことは、もちろん彼自身が書くしかない。乱れなことだらけでも、滑稽なことでも、書くなら、木島しか書けない。それは彼の所有物であり、彼の隠された秘密は、今からでも彼がこの業界で生き残る唯一の拠り所になるだろう。
往った日々と夜に湧いている愛憎は記録がなく、その詳細は覚えている以上、木島はずっと書き続けることができる。
それは木島の言わずもがなの恋であり、ペン先が禿げて紙を切っても消滅しない永遠の境である。また下品な動機でベージをめくるために書店の棚に並べられた誓いであり、すべての美悪の記憶であり、欲望の底にある幻であり真実なのだ。彼はそれを啜り、指と唇を温め、孤独と祝杯をあげる。
やわらかい光に包まれて、木島は時計を見上げた。もう午後3時だ。このコーヒーを飲んだら、榛原さんを早く帰らせようか。なぜなら、もうすぐ担当編集者が来るからだと彼は思った。
 
(終)

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