好きを通す
春になってきて、何故か『カードキャプターさくら』を思い出し、OP曲だったプラチナを聴いている。いい曲。
『カードキャプターさくら』を大人になって観返すとさまざまな〝好き〟があることに気付く。
年齢、性別、立場などを超えて〝好き〟がある。だが、作中で誰も否定をしない。同級生の小狼くんが年上のお兄さんを好きになっても主人公のさくらちゃんは「変だよ」とは言わない。当時、観ていた私は首を傾げていたのとは、雲泥の差だ。
よく考えてみれば、誰かを好きになることそのものに善も悪も無いもんな。
私が特に良いなぁと思ったのは、さくらちゃんの親友である知世ちゃんだ。さくらちゃんは知世ちゃんを親友として〝好き〟だが、知世ちゃんの〝好き〟は少し違う。知世ちゃんは言う。
「わたしには、大好きな人が幸せでいてくださることが一番の幸せなんです」
知世ちゃんは、両思いになること以外にも幸せはあると知っているのだ。
尊すぎないか!?
小学生とは思えない大人な考え。そんな知世ちゃんにさくらちゃんはそんな風に想ってもらえる人はきっと幸せだねと返す。
YOUー!!
もうね、この作品のキャラクター達の言葉って優しさに溢れてるんだよね。不快や傷付かないにならないように気遣い、思いやりがあって、駅で列に割り込まれて舌打ちしそうになった自分の言動とか反省するわ。
もうひとつ、さまざまな〝好き〟が描かれた作品がある。最近まで放送されていた『作りたい女と食べたい女』だ。
少食だが、激盛り料理を作りたい野本さんと食べることが大好きな春日さんはアパートが隣同士。ひょんなことから知り合い、一緒に食事するようになる。
野本さんと春日さんは次第に惹かれ合い、お付き合いするようになる。
この作品の好きなところは韓流ドラマのような劇的な展開はなく、日々のなかで、関係性が変化していくところだ。
先程の作品と共通するのは〝好き〟を誰も否定しないことだ。
野本さんが春日さんを好きになったことを会社の同僚に相談したとき、同僚は明るく「良いんじゃないですかー」と返す。普通の恋バナとして扱うところも好感をもてた。
私はどうも『普通』を普通として扱わない作品が好きなようだ。
一般的に浸透している『普通』とは、本当に普通なのか?
そう問いかけてくれる作品が好みだ。
野本さんは、料理好きだからといって、いい奥さんや家庭的になりたいわけではない。でも、世間では料理をアピールすれば、家庭的、良妻賢母だと言われる。
大谷選手の結婚発表からの囲み取材でも、料理は奥さんがする、サポートすることが前提で質問する記者がいて、日本に浸透している価値観が見えた気がした。
春日さんは女だからというだけで、弟と分け隔てられた過去を持つ。食べたいのに食べさせてもらえなかった。春日さんは自分の人生を守るため、実家と決別する。
家族だから話せば分かり合えるというのは、幻想だ。家族でも所詮、自分以外は他人なのだ。
ドラマの最初、野本さんが料理をして、片付けを春日がしていたが後半になるにつれて、二人で一緒に料理を作ったり、片付けをしたりするようになる。その光景は家族そのものだと感じた。
互いに役割を振り分けて、その役割だけに徹していれば良いと思うのは、いまの時代には合わないだろう。
そもそも、その役割だって誰が決めたんだ?と思う。
野本さんと春日さんは、ゆっくりと歩む。互いに歩調を合わせながら。
とても、ホッコリしたドラマだった。
もっと、さまざまな〝好き〟を描いた作品が増えたら良いのになぁと思った。
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