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6月の日記 死の引力
友達という言葉を使うと,あたかもその人と自分が仲良いんだぜと周りに自慢しているような気分になってしまう.
自分の中で間違いなく友達だと確信していても相手がそうだとは限らないし,そういうある種の裏切りを過去に受けた経験もある.
だからまあ無難に「知り合い」とか「会ったことある人」とか「よく会う人」とか適当に誤魔化してしまう.
◆◆
2020年6月23日
中学の同級生が死んでしまった.
その人のことも「友達」とは呼びづらい.いや,もはや友達と呼ぶには疎遠すぎる.もしその人がこれからも元気に過ごしていたら、少なくともあと何年かは思い出すことさえしなかっただろう。
その人が死んだ報せを受けたそのとき、これまた別の中学時代の同級生と酒を飲んでいた.その場にいた全員,当然その人のことを知っていたし,中には部活動が同じだった人もいた.
突然の訃報に涙を流す人がいるかと思いきや,大人になったのか,それともその人に対する感情が特にないのか,はたまた店に迷惑をかけたくないから堪えていたのかわからないが,ただ俯き加減で黙っていた.
盛り上がるべき場で極端に静かになってしまうことを「お通夜かよ」と揶揄することがよくあるが,あの時のテーブルは間違いなくお通夜だった.というか,そんなふざけたジョークを出すことさえ許されない空気感がそこにはあった.
◆◆
帰り道,少しのあいだ,死という言葉の持つ引力を感じ取ってしまい,恐くなった.別に死にたくないとはいえ,人はいつ死んでもおかしくないという事をまざまざと見せつけられ,むしろなぜ生きているんだろうとさえ思えた.死んだ人が意外であればあるほど,この気持ちは強くなっていく.
母親に訃報を伝えると,「なんで!?」と声を上げた.それを聞いて,そういえばどうしてだろう.と,その人が死んだ理由について初めて考えた.
その過程で,その人がどんな人だったか,なんの教科が得意だったか,何部で,いつ同じクラスになったかなど,できるだけ詳細に思い出そうとして、途端に自己嫌悪に陥り考えることをやめた.友達ですらない自分が,あたかもこれまで親友だったかのようにその人に思いを馳せ,エモい感情に浸ること自体が究極的に失礼な行為に思えたから.
そのあと,そのあとだ.そのあと,風呂に入って,いつも通り明日に備えて寝ようとする前に.卒業アルバムを開いてしまった.
それが,そのとき本当に最悪だと思った。
それは自分にしては突発的な行動でもあったが、あの局面で突発的であることは重要だったのだろうか?
仲良くしている人,でも,よく会う人,でも,かといって知らない人,でもなく,まあ,ただの中学の同級生かな.という人が,死んでしまった.
◆◆
この断片的で些細なメモのようなものは,間違っても追悼ではない.ましてやその人のためでもなく,かといって,断じて自分のためでもない。
ただなんとなく書きはじめてしまった。
書き終えた感触がないまま,ここでいったん書くのをやめることにする。
この文章が弁解らしくなっているのもいやだけど,でもそういう面もあるのかもしれない.
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