理屈が理解できていないと感情が優先されてしまう

物事の判断をするにあたって、理性的に判断した方が良い結果になる確率は高い。
理性的に判断するとは、自分なりに筋が通っていると思われる理屈を説明した上で、その理屈を根拠として判断することだと個人的には解釈をしている。
この自分なりに筋が通っている状態の強度をいかにして高めるか、が昨今のブームである教養の役割である。

教養がない状態で筋の通った考え方をすることは極めて難しい。
できるかもしれないが、かなり効率は悪い。
労力を多大に割く必要がある割には、得られる効果が相当に少ない。
なぜなら、自分の中だけで理屈を組み立てても、必死に組み立てても、その出来上がった理屈はすでに過去に編み出されているからである。
大抵の思いつきやアイディアはすでにこの世界にあると言っても差し支えはないだろう。

そもそもとして、理屈を生み出そうとするような人は大抵の場合、理性的な判断をすることが多いように思われる。
問題なのは、理屈っぽいだけで実は感情に流されているだけの状況が世の中には非常に多いように見受けられる。
専門知識があったとしても、そのように判断をする人は少なくない。
専門知識を含む世の中に溢れている情報はあくまでもソフトであることを皆、忘れがちであると思う。
ソフトが活きるのは、あくまでも優れたOSありきであり、このOS部分がその人なりの理屈であり、俗にいう価値観というものである。

理屈を考え抜くことと、理屈っぽいことの違いは何か、を考えた時に個人的な解釈としては、考えることを継続するか否か、が大きな違いになるかと思う。
理屈を考え抜くことを常に続けていると、いずれ「あーこれは答えなんてないな」と思う瞬間がくる。
この状態からそれでも状況に合わせてその時その時の理屈を考えて、「現時点ではこれが最善かな」とある種の諦めを持ちながら判断を下していく営みを理屈を考え抜くということではないかと思う。
理屈っぽいは、結論ありきで自分にとって都合のいい情報や解釈を他人に対して披露することを目的とする人の性質を指すのではないかと思う。
そして、タチの悪いことに理屈っぽい営みというのは、一定の気持ちよさや楽しさがあることも否めないのもまた事実である。

理屈で理解するためにはまずは感情を抑えることが必要だが、感情が優先されること自体は善でも悪でもないと思う。
大切なことは、将来に渡って後悔するような判断をしない努力をすることである。
そして、後悔するような行動は多くの場合、感情的な言動から生まれることは歴史が証明している。
感情は大切にしつつも、感情的な言動を犯してしまう前に、一呼吸入れて、冷静になること。
この冷静さを保つために理屈で理解することが有効な手段であることを忘れないようにしたいと思う。

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