何もしない
何もしないことって、案外難しいと思った。
つい昨日まで、『何もしない/ジェニー・オデル著』を読んでおり、ここで定義されている意味と、そこら辺で考えられている意味が全く違うことに驚いた。
曰く、「何もしない」とは、生きる中心を自分ひとりから、生態系全体を含んだ意味での他者へと視点をずらし、共生を図ることだという。
今日は何もしないよというと、ただ床の上に寝そべって干からびている(これはこれで好き)ような印象を与えがちになるが、この本ではむしろ外向的な取り組みとしてその言葉が捉えられている。
また、「何もしない」ことが生まれにくい昨今の注意経済(アテンション・エコノミー)に対しても繰り返し触れている。
生態系に対して外向的になることで、今生きている場所に根付いている感覚や、安心感も芽生えると思った。
そこで昨日の夕暮れ時に、いつも通勤で通る道の花壇に生えている草花たちを、一種類ずつ入念に撮影し、今日は彼らの名前や特徴(食べられるかなど)を調べようと思った。
道行く人たちに不審がられたのは、言うまでもない。
しかし、そんなことは気にせず、不必要に大きいシャッター音を鳴らしながら歩いていた。
名前や特徴を知ることで、友人になれる気がする。
これまで「草花」と認識していた大きな塊に対して解像度を高くし、塊を作っているひとつひとつが生きていて、それぞれ違ったルーツをもって集結していると気づくと、もはやそこに小さな地球があるように思う。
ほぼ毎日通る道で、繰り返し友人たちと会えるのは、なかなかに喜ばしい。
してみると、強迫的に「何かをする」ということは、むしろ生きている感覚から遠ざかる動きなのかも知れない。
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