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自然な巡り合わせを愛でる

先日まで読んでいた「THE NATURE FIX」を読み終えた。
自然や植物と触れ合うことは必要だと分かっていても疎かにしてしまいそうになる自分へ、警鐘をいつも鳴らしてくれる。


今は、名前だけはよく聞いていたエーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読んでいる。
ついつい「愛されること」だけを欲してしまう自分にはチクチクする様なテーマだけど、楽しみだ。


1月初め、書籍を5000円分まとめ買いし、目につくところに積んでおいた。
その際は、インテリア要素も見出していたため、ぺらぺらの表紙は全て剥いでおいた。
きっと本屋の利益追求のためにデコレーションされたであろう小説の”皮”をはぐと、わら半紙にタイトルだけが書いているような、なんとも大人しくて慎ましやかな本体が露になる。


棚などに整然としまっているよりも、やはりいつも目に入れていると読むことについて楽しみになってくるし、それだけで毎日がキビキビとしてくる。
少々厄介な用事も済ませようと思えるし、仕事にも幾分か力が入る。
このまとめ買いルーティンは、今後取り入れても良いかも知れない。


夜またフロム氏と出会えることを楽しみに仕事に出たわけだが、列車内で眠気が強くなり、半ば気絶。
窓サッシに後頭部を勢いよくぶつけて目を覚ましたのだった。



今日の出勤前のカフェでは、過ごし方をほんの少しだけ変えてみた。
とは言っても、スマホを鞄の中にずっと突っ込んでいただけだが。
改めて、スマホから離れると、5分でもかなり時間の余裕を感じられる。


半分夢の中に居るような感覚で窓の外を見ていると、役所沿いに生えている大樹のひとつが、横から見た人間の脳と脊髄に見えて仕方がなくなってきた。
しかもそれが役所のシンボルツリーと思しき場所に居るものだから、余計に意味深長だ。


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無料で出来ることが増えている。
ということは、自由にできることも増え、てっきり便利で生きやすくなるのだろうと思っていたものの、実情はそうでない。
早さ、安さ、広さにはいつも付いていけなくなる。


便利になるにつれて生きにくさが増えていくのは、それに連れてきっと受け身になる機会が増えてしまっているからだと思う。
発達し過ぎたストリーミングサービス、何でもメニューに載せているレストラン、デリバリーや配車のサービス。

「らしく生きる」には、何かしらの”結果”(映画を観る、ご飯を頂くなど)を考えた際、そこへたどり着くまでの道のりが不便=主体的になれることがカギになっていそうとも考えられる。
だからこそ、遠い映画館へたまに出かけることや、外食ではなく自炊をすることは好きなのだ。



もしかしたら、ある程度規制のある方が過ごしやすいのではないか?
とさえ思う。
自動車や鉄道事故でひとつの路線が規制されると迂回ルートが輪郭を持ってたちまち生まれるように、ばらばらに幾つもあるものに形を与えて纏めてくれるのは、普段避けがちなアクシデント達なのかもしれない。


情報との向き合い方を変えてみて、その時気づけなかったとしても、巡り巡ってオフラインで、時を経て何かしらの形で現れてくれることに気づく。
その情報がティーカップなら、気ままに入ったお店に置いてあったり、服なら、知人がある日突然着ていたりする。



気づけなかった時の後悔を考えてあれこれインプットするよりも、やっとの思いで気づけたものや拾えた何かをじゅうぶんに愛でる。
それだけで幸せな気がする。

いつも身が、ちゃんちゃんと決っているのだから、気持の上から楽なことだろうと思う。私みたいに、何もしたくなければ、いっそ何もしなくてすむのだし、どんな悪いことでもできる状態に置かれているのだし、(中略)ここからここまでという努力の限界を与えられたら、どんなに気持が助かるかわからない。うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ。

「女生徒」
-太宰治

写真中央の大きな木が、
大脳と脊髄に見えてしまったそれだ。
冬らしい、
雲はあるけど透き通った空だった。

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