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バッタはミニマリスト

何か物を足したら、それまであった物を引く。
とくに足すことは無くても、引けるものは無いか考える。
こう考えだしてから、だいぶ身軽になったし、外にふらふらと出かけていきやすくなった。


暮らしに対する、引き算的心構えと、偏執狂ぶりはいつも隣り合わせだ。
最近は実験的に、頭と体と泡で洗うのは週1回にしている。
なので大抵の日は、お湯のみで身体を洗っている。
1か月ほどそういう実験をしてみると、不思議なことに体臭が薄くなった(身近な人に自分の体臭について尋ねても、むしろこの実験に驚かれた)。

これは洗剤による過剰洗浄を防げたからとも言えるが、週一度しか洗えないという制約を決めてしまうことで、それ以外のお湯だけの日は、いつにも増して入念に身体をチェックするし、洗い流すようになったからだと思う。

上の場合はモノではなく「機会」を引き算したものだったが、モノに対しても引いていこうと思った出来事が、つい今朝の散歩中に起こったのだった。

ショウリョウバッタの幼虫を今年初めて目撃した。
横の草原から散策路に飛び出してきた。
都会時代はバッタのことなど忘れていた自分に対し、ほのかに夏を知らせてくれ、旧友と久しぶりに会ったような感覚に浸っていた。

私の前を素通りし、その子はなだらかな斜面の、日差しが強く照り付ける草原に、軽快なステップで躍り出ていった。
陽を浴びてもなお、歩みを止めなかった。
どこへ行くんだろうと、姿が見えなくなるまで見送った。


それにしても、しばらく見ていなかったバッタは、知らない間に生まれ、大きくなっていたものだ。
やはり、自分の知らないところで生き物たちの命は間違いなく動いているのだ。
暑苦しいコンクリートの上ばかり歩いていると、ヒトご自慢の脳まで焼かれ、この尊い事は忘れてしまう。
生き物たちとの繋がりと、それを目の当たりにした時(これは何か新しいモノを見たときの感覚に似ている)に感動できる自分でありたい。

あの子は鳥からするとまだひ弱で、おやつにちょうど良い大きさだった。
それなのになぜ、あえて見晴らしの良すぎる草原に、しかもスズメやエナガがまさに飛び交っている場所に向かっていったのだろうか。
たぶん本能だろうか、外に出て、動いていたいのだろうか。

またこれは、自然の動物たちがそうしている事を見ると、人も同じではないだろうか。
自分もよく、家の中のものに囚われるより、外で景色を見たいと思うことがよくある。


景色を見たいまさにその時に、部屋のドアを開ける気力を養うためにも、物を減らす意味はあるのかも知れない。

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