運営に人格があってもいいんじゃないか

奈良三宅町にある、交流まちづくりセンターMiiMoに来て3ヶ月と少しが経ちました。早いような、遅いような・・・?そんな気分です。

MiiMoには少しずついろんな活動が増えてきて少し思うことがあるので、
ここに書き残しておきます。(あくまでも個人の意見です!公式は、三宅町のnoteに書いてあるので、そちらをどうぞ!)
https://miyake-town.note.jp

思うことは、もっと運営スタッフが人格を持ってもいいんじゃないか。
人格で判断していいんじゃないか。ということ。

一応公共の施設だからさ、公平性って大事だと思うの。
でも公平って色々あるなぁと思ってて、どこの公平性を大事にするか。という所はすごく難しいと思うけど、腹極めする必要があるのかな?と思ってたりします。

MiiMoで行くと2段階の公平性があるなぁと思っていて、
1段階目が「機会としての公平性」で、2段階目が「サポートとしての公平性」

私としては、1段階目の「機会としての公平性」を担保することには全力を注ぎたいと思います。それは三宅町内に限らず、もっと広くみて、全国単位で誰かの機会にMiiMoがなれたらなぁという大きな意味で。
でも2段階目の「サポートとしての公平性」は正直ムラがあってもいいのかな?と思います。そこって割と文句が出やすいところでもあって「〇〇さんが優遇されてる!」なんて言葉がもう聞こえてきそうで難しいんだけど・・・。
でも、「優遇しました。だって〇〇さんはこんな素晴らしい取り組みをしてたからです。」って言ってもいいと思うの。そこは。

だってサポートを作るのも、サポートするのも結局は”人”で、
サポートするのって労力がいるから…気持ちがついてこないとどうしようもないと思うの。(大きなわかりやすい営利が絡んでたら別なこともあるかもだけどね!)

だから、サポートをどこまでするかどうかに、人の価値基準は拭えないし、あってもいいと思うし、それを理由にしてもいいと思うの。

でもそこですごく大事だし、言われた人にちゃんと伝えなきゃいけないことは、
別に「〇〇さんを応援する」ことは「××さんを否定すること」ではない。ということで、あくまでもそこは”私”の価値観で判断したということ。

そこで、公共において大事なことは、その判断の”価値観”が多様で、
それぞれの価値観を持つ人がそれぞれの人格を持って、
人格として独立して働いているということなんじゃないかな?


私の価値観では「〇〇さんを応援」することがよくて、でもBさんの価値観では「××さんを応援」することがよくて。そんなパターンを増やすことが大事なんじゃないかな。そして、その応援が運営だけではなく、来館者同士で行われていって、価値観がどんどん多様になっていって・・・
そこで初めてある意味公平性が保たれるんじゃないかなって。

そうなるためには、ちゃんと会話しないといけないとも思う。
そこが一番努力すべきとこなんじゃないかなって。

同じように素敵なことをしていても、
アピール上手な人もいれば、アピール下手な人もいて、
そこでアピール上手な人ばかり取り上げてしまうと、アピール下手な人にとってはもはや機会の不公平にもなりかねなくて・・・。
だから、ちゃーんと利用者さんを見ないといけないんじゃないかな。できるだけ小さな変化も見逃さないように。ちゃーんとみて、素敵な人はちゃんと声を出して評価して、そんなことが実はすごく大きく変わる引き金なんじゃないかな?って。

今の一緒に過ごしている生きている時間と命以外に絶対な公平なんてない。と思うけど、世の中広く見ると自分にとって公平な場所って作ることはできるのかな?とも思うし、その世の中の広さは、物理的な範囲でもあるけど、それ以外にも価値観の多様性で作れるものでもあると思うし。

何が言いたいかって、私はMiiMoで広い世界を感じてほしいし、
誰かにとって誰かの活動が評価したくなる、サポートしたくなる活動であるような状況を作り出したい。あと、誰かをサポートしてみよう、喜ばせたいな。という気持ちの表現の仕方の多様性をもっと提案したいな。と思っているってことです。

長々とメモがわりで何が何か。だけど、みんな価値あるよ。
でも、価値を評価するのも価値を生み出している人と同じ人間だから。
人間ってそ〜んなすごくないから。補い合っていこうよね。ってこと。

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