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長女を自死で亡くしました

25歳でした。産まれた時から、僕の娘とは思えないほど利発な娘でした。言葉も直ぐに覚えたし、歩くのも早かった。
小学生の時に、憧れた中学校に入るために一生懸命勉強をして、見事に合格してみせました。おそらく日本で知らない人は居ないんじゃないかなぁ、ってくらい有名な学校です。

僕は勉強嫌いで学歴も無い父親だから、普通に公立校に入れば良いんじゃないかなぁ、くらいしか思っていなかったので、「勉強しなさい」なんて一回も言ったことは無かったんですよ。それでも自発的に目標を決めて、塾に通って勉強をして。
合格した時は、そりゃ嬉しそうで、僕も誇らしかったの覚えています。だって頑張ってたもの。

ただその憧れの中学生時代のどこかで「希死念慮」というヤツが心に芽生えてしまったようです。

彼女は十数年の長い間、ずっと悩みながら戦って来たのだと思います。酷く落ち込む時もあれば、前向きになる姿も何度も見てきたんです。大学に進学し「フランス留学したい」と聞いた時には嬉しかったなぁ。だって久々の前向きな“やりたい事”のお願いだったから。

卒業後はCOVID-19の影響もあって苦戦した就職も決まり、一時は一人暮らしもはじめ、僕はもう勝手に「巣立って行った」ものだと思っていました。だって男親が色々と干渉してもウザいだけじゃないですか。勝手にそう思っていました。

でもその後、転職して家に戻ってリスタートを始めた後、彼女の「希死念慮」は抗えないほど強くなっていたようです。
僕はあまりにも理解が足りなかった。その苦しみにも戦いにも。

結果的に、ある日彼女は自死を選び、この世に残った僕たちは慟哭の日々を送る事になります。こんなにも深い苦しみ悲しみがあるのだろうか。出来る事ならこのまま消えてしまいたい。そう何度も思いました。

しかし次女も妻も居るのに、もちろんそんな訳には行きません。猫も二匹居ます。死別の後の弔いや手続きに、時に手荒く揉みくちゃに翻弄されながら、一日づつなんとか、なんとか過ごしながら生きて、やっとの思いで四十九日法要を終えました。

彼女が逝ってから、しばらく僕が取り憑かれていたのは「なぜ?」「どうして?」「あの時ああしていたら違っていたかも」「もっと何か出来たんじゃないか」「俺のせいで」など、決して永遠に結論が出ることの無い自問自答、自己嫌悪、憐憫、後悔の無限ループです。
正解に辿り着ける事など無いのが分かっているのに、気がつけばいつの間にかその事ばかり考えて、頭の中にグルグル巻く渦に占領されていました。
それは彼女の命日からほぼ2ヶ月たった今でもまだ、振り返るのが恐ろしい程の濃密な苦しみ、悲しみ、慟哭の日々です。

でも、そんな僕がなぜ今こうしてnoteを書いているのでしょう。
それはある日、悲嘆の底で、ふと思ったのです。「あぁ、こんな事はもうたくさんだ」って。
もちろん僕たちに起きた事はもう変えられません。
でも未来は、ひょっとしたら少し変えられるかもしれない。
僕が感じた事、考えた事を発信して、いま苦しんでいる誰かが見てくれれば。

「自死」「希死念慮」は長らく忌まわしい物と考えられて蓋をされ、仕舞われ隠されて来ました。それは恐らく「理解不能」だから。「理解するのが怖いから」だと思うのです。わかります。僕もそうでした。

でも、その無理解も彼女を苦しめたのだと今では思います。

希死念慮に取り憑かれた人を救うのは難しいかも知れない。それでも、そんな人達の周りに居る誰かの助けにはなれるかも知れない。ひょっとしたら僕たちと同じ境遇の人たちの助けかも知れないけど。

事実はもう変えられないけど、それが持つ意味は少しは変えられる。
ならば、僕は残りの人生をそう生きよう。

この暗闇に光は無いのか、と自らに問えば、今は「まったく無い訳では無い」と答えられます。

だから苦しんできた事、考えた事、なるべく飾らず隠さず、少しづつですがnoteを綴ろうと思います。








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