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「企画書」メモ5

Ⅱ.

「ポンプ」

「時代をつらぬく面白装置」からの抜粋と、感じたことや考えたことである。

ポンプの原点イメージ

六〇年代のオーラス(p.62)

オーラスの意味が単純にわからなかった。麻雀用語で、最終局面という意味の模様。参考↓

管理社会が、どんどん進行していって、人間も分類化されていった。まだ分類のしかたは、「エリート」「ノンポリ」「ドロップ・アウト」程度の大雑把なフランク・ザッパだったけど、やっぱ、個々の人間的質を無視した色わけ分類が進行していたんだと思う。(p.62)
学生というのは、学校という、わけのわからん分類方法で人間関係を規定されてしまう。(p.62)

私は常々、「進学校」という言葉やその存在が、非常に差別的・侮蔑的・進路決定の判断力の低下を招く、非常に根深く罪深い社会装置になってしまっていると感じていたので、表現の違いはあれど、上の文章に共感する。学校という団体は管理者が管理しやすくなるための管理装置として機能してしまっている側面は間違いなくあると思う。もっともっと、我々は、学校や企業組織ではない、第三の場所、社交の場所、そういったものを積極的に作ったり見出したりしていく必要があるように感じる。

深夜放送が登場してくる。同人誌がミニコミに変質してくる(=これはメディアの歴史の中ですごく重要なポイントだと思うのだが)。(p.62)
時代の主体は、組織や形式の立場にではなく、むしろ、それらをはみ出していくぼくたちひとりひとりの側に移ってきたように思えた。(p.62)

だといいのだが。我々は令和の時代もなお、管理社会の檻の中にいる人が多いというのが現状のように感じる。コロナ禍にもなってしまい、突破口を我々は見出すことができるのか。はみ出していく人間存在の個性を、生き生きと泳がす手立ては残されているのだろうか。

七〇年代を知らずに八〇年代を語るな

六〇年代は七〇年代になって、ちゃんとダメになったわけで、そのへんの「本当にダメな部分」と「ダメにしてはいけない部分」を、はっきり整理する時代として、七〇年代はものすごく重要な時代だったと思う。(p.63)

近頃の日本は、昭和時代に水面下で潜伏させてきた問題の膿が表出している時代を生きていると思うが。七〇年代といえば、生まれていない私からすれば、高度経済成長期の絶頂の時というイメージで多くの人はポジティブなイメージなのかと思いきや、少なくともポンプ編集長は、本当にダメな部分、というものを見出していたんだな。そういった視点というものは、少なからず現代社会にも脈々と受け継がれているところはあるのだろうか?

「六〇年代に学生運動があって、あれがポシャッたのは、学校という限られた範囲の中で拠点を作ってしまったからだ。七〇年代には暴走族があって、移動する能力はあったけど、頭ん中がカラッポだったのでダメ。移動できる拠点は何か?それはメディアですよ」。どないでっしゃろか?(p.63)

学生運動の考察、なるほどな。「移動できる拠点」はメディア。さて、どうなんだろう?私自身、「女子サッカーに耳をすまして」というメディアを作っている。

「移動できる拠点」としてのメディア、か。ちょっと頭の片隅に置いておこうと思う。

Q&A

情報というのは誰のものでもないはずです。ひとりで生きてるわけではないのだから、あなたが考えたことも、きっと、あなたの経験や周辺の人に影響されてできたんだと思います。だから、情報はみんなのものです。(p.66)

情報も誰のものでもないし、お金も誰のものでもないんだよな、本来。しかし、やたらと貯めこんだり、「所有」しようとしがち。もっともっと流れるように、生きていかないと、人間らしくはなれないんだろうな。

ジャーナリズムってなあに

七〇年代に出た新しいスタイルの雑誌といえば、『ポパイ』と『ぴあ』に代表される種類のものだろうが、ここには、これまでの出版ジャーナリズムの常識を根本的にくつがえす発想が胚胎していたと思う。ジャーナリストがさまざまな現場に飛び、人に会って取材し、ジャーナリストとしてのそれぞれの視点で状況を把握する・・・・・・・というのがこれまでの「ジャーナリスト」ってやつのありかただったと思う。しかし『ポパイ』には物を物として、『ぴあ』に、は事実は事実として、ただそれだけを提示する、という発想があったはずだ。視点が対象の中に移行したのだ。(p.68)

一部のインテリ層というかジャーナリスト達の主観に、ついていけなかったり、嫌気がさしてしまった人が、七〇年代あたりから顕在化しはじめたんだなあ。ここにも階層化の負の部分がみえるなあ。人間が人間に対して優越感を持つというのは、日常的に見る行為だけど、やっぱり後々負の感情を残すし、良くないこととして、認識しないとダメなんだろうなあ。

「ポンプノオト」からの抜粋と、感じたことや考えたことである。

しかし「客観的意味」なんてものは実はないのだ。(p.71)
ポンプは言葉(客観的意味)と出会う雑誌ではなく、人間(主観的存在)と出会う雑誌なんだから。(p.71)

私も客観性というものについて考えたことがあるけど、客観性なんてせいぜい大多数の主観の平均を取ったような代物で、お化けみたいな概念だと捉えている。

「ポンプの創刊に協力してくれたみなさんへ(一年後の中間総括)」からの抜粋と、感じたことや考えたことである。

ポンプというのは、メディア全体の技術革新の尖兵です。(p.73)

メディアというもの自体を、技術革新しようとし続ける姿勢、この姿勢を学びたいと思う。令和を生きてなお古臭いメディア環境の中にいる私たちにとって、今もなお学びがある姿勢だと感じる。

本当に必要なコミュニケイティヴ社会をつくるためのひとつの方法です。(p.73)

コミュニケーションというものについて、いよいよ、本当に深く向き合っていく必要がますます大きくなってきている、のかな。

よく、ポンプの文には深みがない、と言われます。ちょっと考えたんだけど<深み>というのは、多分、筆者(送り手)と読者(受け手)との意識の距離なんじゃないでしょうか。(p.74)

その後の文章で、ポンプに「深み」がないことについて、ポンプ編集長は否定していません。「深み」は意識の距離か。わかったような、何か納得できないような・・・。

ぼくは、ぼく自身の仕事として、どんどん個人なり、小イデオロギー集団に、宗派に、閉塞していってしまう歴史の流れに対して、すこしでも多くの「出会いの場」を用意することだと思ってます。(p.75)

この、対流を起こそうとする姿勢については、共感します。

※トップ画像は、クラウドファンディング参加した「トイビト」さんから頂いたノートと、「鈴木再生」さんで最近購入した木製ボールペンの写真です。2022年から、読書メモに使っています。

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