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災害のような人

急に現れて言い寄られ、一晩でいろいろあり、私は執着してしまい、うっかり1年以上も思考のリソースを割かれた。2年ほど前の出来事である。2年前の今頃は、怒りや悔しさとほんの少しの愛情に支配され、筋トレや減量に昇華させるなどの対処法を模索していた。それでも当該人物のSNSアカウントを毎日のように見に行っていたので、これはもはや自然災害のようなインパクトで脳内物質を変質させられてしまったようなものだ。

やっかいなのが、当該人物とはITコミュニティを通じて出会ったので、そういう意味でも自分と気が合うのかもしれないと期待したこと。我々に起こった問題は、そのITコミュニティとは全く関係ない、単なる男女間のものだ。しかし、コミュニティにおけるハラスメントの話題になると、思い出さずにはいられなかった。コミュニティで元気に活動する当該人物を見て、いいなと思う半面、コミュニティで出会った女性を尊重しないくせにのうのうと活動しやがってと思う自分がいた。

どこかで近づきたいと思うと同時に、復讐したいという気持ちがあった。誰にも言えない思いは、当時もうすぐ無くなるというGoogle+に、自分だけが見える公開設定で闇を書き付け(その後サービスは消失した)、さらにメモ帳に、自分の身に起こったことを書いた。いざと言うときはこれを増田にでもnoteにでも書いて炎上させることもできる。

「そういうことをやってしまうかもしれない私に対してこんな扱いをするなんて、本当に馬鹿ですね。絶対にしないけど」

そうやって、自分には武器があり、選択肢があると思えるだけで立っていられるような気がしたが、武器を持ち続けているということは執着してしまっているということだ。

そんな災害のような人から、与えられたものはなにもないが、自分が勝手に進化したように感じる。大災害からの復興、もしくは筋トレで傷つけられた筋繊維の超回復のようなものかもしれない。

当該人物から加害された(人として尊重されてない)と感じた私は、まず取り組もうと思ったのは5kgの減量。怒りを筋トレに載せるのはアプローチとしてやりやすかった。その後、自己肯定感というキーワードに巡り合った。加害されたと思った私は、執着し、アンチパターンな反応しかできていなかったことに気づいた。そうして私は恋人ができ、パートナーシップに関して何も問題がなくなるところまできた。

災害のような人のことは、もうどうでも良くなったにも関わらず、どうしてまだこんな文章を書いているのか。私がたとえ本人を追求するようなメッセージを送っても外れることのなかったFacebookのフレンドが、つい先日、外れていることを確認したからである。私はたまに恋人ののろけ投稿をしてるので「まぁそりゃうざいわな」というのと「あっ、それ気にするんだ」という驚きの気持ちがあった。私がのろけ投稿をするなかに、どうやらいいパートナーシップが築けていない当該人物に対して、見せつけてやりたい思いが0.1%くらいあったかもしれない。

私は、加害された立場から乗り越えていくことができたけど、加害した立場は、どうやって乗り越えていくのだろう。共通の知人が多い割に、当該人物について語り合えるほどの交友関係もなく、それを私は知る由もない。

縁は切れた。インターネットにこの文章を放っても、特に炎上もしなければ、相手が見ることもないだろう。私が文章を書いたら炎上する、私は炎上させることができると思ったのは、執着していたからだ。

私は復讐心とともに武器を捨てる。

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