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日本の組織の“会議下手”の原因は何か?

 前回の当コラム『停滞した組織にあっても、「時間コスト」を忘れるな』の中で、「時間を有効活用するスキルの欠如」の一例として「無意味に長い会議」にふれたところ、大きな反響をいただいた。総じて日本人は会議が下手であるといわれる(私が社会人として初めて入った会社でもそうだった)。それにしても、これだけ多くの方が賛同の意を示してくださるということは、ひょっとすると、“日本病”の根幹はこのあたりにあるのかもしれない。そこで今回と次回は、日本の組織の会議ベタについて考えてみたい。今回はまず、会議ベタにつながっている原因について分析してみることにしよう。
 まず、もっとも大きな理由に挙げられるのが、往々にして、参加者が「はっきり意見を言わない、本音を言わない」ということだ。こうなると、せっかく会議をしていても、会議に参加している人全員の“知恵”が結集されることなど望むべくもない。議論は最初から“トップの意向”をベースに進むことになり、その結果、結論が可能な限り先延ばしにされたり、問題解決とはほど遠い“足して二で割るような”ピンぼけの結論に至ってしまったりする。「こんなことでいいのか」という疑問を抱きながらの議論は活発にならず、時間はかかり、参加者は疲れ、会議の成果も“精度”を欠くことになる。今後の活動の指針を導き出すための会議が、結果的に参加者の時間を奪い、士気を下げる場になってしまっている。

●非効率な会議の土壌には“官僚体質”がある

 確かにこれは“企業風土”という根の深い問題に起因しているのかもしれない。「うちの会社ではヘタなことを言うと、上司に睨まれる。現に、先日会議で課長の分際で役員に意見をした●●が、人事異動でヤバイ部署に飛ばされた」「そもそもこのプロジェクト自体にムリがある。参加者全員がそう思っているが、そう切り出したヤツは血祭りにあげられるのは見えている。オレは自分の部下の運命を預かっているのだから、巻き込まれないように黙っているしかない」「どの案件に賛成し、どの案件を葬り去るかは最初から決まっている。その“空気”を察知して皆と一緒に“溺れる犬”を叩かかないと、“協調性のないヤツ”ということになり、今度は自分が標的になる」…ダメな会議をしているメンバーの本音は、だいたいこういったところだろう。

 そもそも会社に限らず日本の組織全般の会議は、誰が言い出しっぺで誰が最終責任者か分からないようにしながら、最初から計画していた着地点に至るための“責任分散会議”や、組織の序列を確認するために上司の意見に部下が追随する“序列確認会議”が多い。確かに、こうした“暗黙のルール”を身につけて行動しないと、日本の会社ではやっていけないところがある。つまり、会議とは、結局は組織体質の映し絵であることが分かる。大きな権限(特に人事権)を持った上司の庇護下に入ることが生き残りのカギになる、いわゆる“官僚主義”がはびこっている会社は、会議もそうした上意下達のムードを反映したものにならざるを得ないのだ。

●官僚体質の下では、電子メールも役に立たない

 話は少しそれるが、こうした「モノを言わない」風土で、“情報共有のとっておきのツール”である電子メールやオンライン会議などを使うと、たちまち厄介な問題に直面することになる。こうしたITツールは面と向かっていいにくいことでも、いくらでも発信できてしまう。こうなると、情報を共有し、より活発な議論が展開するどころか、他のメンバーに「なぜ今頃そんなことをいっているんだ」「あの時の話が全く理解できていないんじゃないか」といった不信感が募ってくる。その結果、チームワークは乱れ、プロジェクトの進行にも大きな影響を及ぼすことになる。日ごろのビジネスの場ではっきりモノを言うことを実践してこそ、電子メールも効果的に作用する。

 また電子メールを活用していくと、オープンに何でもいえるということとは裏腹に、クローズドな世界をも簡単に作ることができてしまう。例えば、特定の人間の間で、上司や同僚の悪口がやり取りされたりする。「モノを言えない」反動が、他人に気づかれないところで、ITツールを“活用”した誹謗中傷の世界を作り上げてしまう可能性があるということだ。各個人の性格にも問題はあると思うが、やはり常日頃のオープンな環境が、何よりも重要だろう。

●そもそも仕事の目的とは何か

 仮にあなたが、こうした陰湿かつ非効率な環境に置かれているとしよう。そこで私があなたに問いたいのは「仕事とはいったい何のためにするのか」ということだ。その本来の目的が、「お客さまの最大満足の実現」「それを通じた組織の利益の実現」にあることを否定する人はいないだろう。しかし、現実には「直属上司ならびにその上のボスの最大満足の実現」を図らねば、生きていけないのも事実だ。二つのベクトルが一致しているときは、努力の方向に迷いを生じることはない。問題は、それらがずれているときの“不条理”にどう対応するかだ。

 ここで、前回も持ち出した“複眼思考”の出番である。実際に口に出しては会社では生きにくくなるが、「仕事の本質は、当該部署が向き合っているお客さまに役立つことにある」「それが結果的に会社に貢献することになる」「その実現のためなら、多少会社の中で毀誉褒貶があっても、あまり気にしない」…こうした“サラリーマンの死生観”をまず持つことが、結局はあなたの仕事のやりがい、低い社内評価しか得られない時の仕事の持続力を担保してくれるのだと思う。上司に気に入られるかどうか、“空気”を読んで適応するかどうかは、仕事の目的を達成するための“手段”“方法論”といった二義的なものだと割り切っていただきたい。この壁を一旦突き抜けないと、あなたが自分自身を継続的に磨いたり、停滞した会議を効率化しようとする動機がそもそも湧いてこない。

 その上で、会議を真に“問題解決のための場所”として再生するにはどうするか。その手始めは、「責任をもって問題を解決しようとしている当事者」だけに会議の出席者を絞ることである。さらなる会議再生のための方法論は、次回に回したいと思う。決して“結論の先送り”はしないので、ご安心を。

(本記事は、「SmallBiz(スモールビズ)※」に寄稿したコラム「近藤昇の『こうして起こせ、社内情報革命』」に、「第42回 日本の組織の“会議下手”の原因は何か?」として、2003年2月3日に掲載されたものです。)
※日経BP社が2001年から2004年まで運営していた中堅・中小企業向け情報サイト


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