父と商船学校

父は函館で幼少期を過ごしたが、中学を卒業すると、太平洋戦争終戦を迎える直前の1945年( 昭和20年)4月に清水高等商船学校に入学する。卒業証明書を見ると1949年(昭和24年)に商船大学高等商船学校( 現在の東京海洋大学)の清水本校機関科を卒業している。
商船学校への進学の理由に関して、父の記述に次のようなものがある。

「当時は太平洋戦争の真っ只中であり常に死を意識して生活していた。新潟高校の理三を捨てて高等商船に決めたのも打算が働いていた。どうせ死ぬなら予備少尉の肩章がある方がいい」

決して崇高な愛国精神で商船学校を目指したのではなく、世情や現実を客観的に観察して、父なりに人生により有利な状況になるように進路を選択したのであろう。

函館と違い温暖な静岡で商船学校に入学した父は、「華の船乗り予備生」として、戦時中の大変な時期を比較的優遇された環境で学び、訓練を受けた。当時の高等商船学校では船舶運航の教科以外に全寮制のもとで軍事訓練が行われ、徴兵は免除されていたが、海軍予備士官に編入されていたのだ。

入学後の父は、どのように人生を歩んで行ったのだろうか。父が清水の高等商船学校に入学した年の8月には、天皇陛下の玉音放送とともに太平洋戦争は終結を迎える。日本はアメリカ合衆国に占領され、大変革の太波を被ることになった。終戦までの社会の制度も大幅に手直しされ、学校制度やカリキュラムも大きな影響を受けたのであった。

父の記述には続きがある。
「全国から清水に集ってきた三期生3600人の一人になつた。然し8月15日に終戦になり半分を整理して1800人を残した。なぜか私は残る道を選んでしまった。船に弱いことを知りながらである。」
自らの体質が、自律神経が弱くまた船酔いしやすい質であり船乗り向きではない事を父は自覚していたのである。

しかし、恐らく父はこの学校でも成績が良かったのではないかと推測する。だから、商船学校に残ることを希望すれば残れると思ったのだろう。
入学して半年も経たない時期で、しかも終戦後の混乱期の転校は難しい選択だったと思う。おそらく、転校するにも実家の経済状況が良かったとは思えない。そのまま残れれば、全寮制の学校であったから食住は確保されたし、官費で卒業までできるはずだった。打算的とも言える選択ではあったが、現実的な選択だった。

このような次第でとにかく卒業にはこぎ着けたのだが、父は次のように書き残している。
「もし在学不許可組にはいっていたら生き方を変えていたかもしれない。私は安易な生き方を選択したのである。4年後その報いは当然やってきた。医師や弁護士になっていた仲間を知って私が選択を誤ったことを反省したが後の祭りである」

無事に卒業し、船員の免許を取得した父だったが、戦争で軍艦だけでなく、殆どの輸送船や商船を失った日本には、海員が就労する職場は極めて限られていたので就職は難しかった。

終戦後も本州と北海道を結ぶ重要な輸送路であった青函連絡船も徐々に復活して来たのだが、前にも述べた通り青函連絡船運行会社には父を採用するような枠が無かった。商船学校機関科卒業の機関士の資格は、当時は就職の役に立たなかったのである。

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