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生い立ち①

こんたゆです

このように自分の生い立ちを語るときが
来るとは思ってもみませんでした
自分を語るなんて
最も苦手なことだったからです

不思議な感じがします

会話の中で
知っている人どうしで少し話すこと
くらいに考えていましたが

こうやってインターネットを通じて
どこかのだれかと繋がり
私の半生に少しでも共感してもらえたら
うれしいです

共感すると 
フッと気持ちが楽になったりしますよね

そんなふうに誰かのお役に立てたら
幸いです



1回目は 生誕~母との記憶 です

私の生まれは北国です

18歳で上京するまで
ずっと1つの地方都市で育ってきました

北国育ちだから自然が好きなのか
もともとそういう設定だから北国に生まれたのか

・・・きっとそういう設定ですね

小さい頃から自然や動物が大好きです
比較的の~んびりした ごく普通の町で
港や森もあって暮らしやすくて
空気がおいしいとてもいいところに
生まれました

両親はもともと公務員でしたが
母はもうやめていて
色々なパートやら 常になにかしら見つけて
いつも働いている人でした

兄姉とは年の離れた末っ子で
ほぼ一人っ子のような感じで
可愛いがられたと思います

3歳くらいまでは祖父母とも同居していました


父や母がちょっと出かけるだけでも
すぐ察知してくっついて行き
金魚のフンみたいだと
よく母が言っていたのを思い出します

車に乗るのが好きだったんです
車に乗って外の風景をじっと眺めているのが大好きで
特に木々の緑の葉っぱが
風に吹かれてうごく様子が

只々 好きでした

父や母と特におしゃべりしたいというわけ
でもなく会話も少なめで

じーっと大人しく
外を眺めているものだから
両親は連れ出してくれたと思います

おとなしくて真面目
いい子でしたよ


車の助手席に乗って
遠出をするなら父 近場なら母といった感じで同行し

車窓からの風景や 行きかう人を見る
待たされているときも
空想したり自分の手元を見たり

独りの時間を好んでいたし
じっくり静かにぼんやり思考するのが好きでした

ゆっくり流れる時間私は両親をほぼ独り占めしていて
兄姉はいたけれど自分だけ特別のような
一人っ子の感覚でいたのではないかと思います

両親も
この甘ったれの女の子をかわいがってくれました



>母について

母は家にいるときは家事をてきぱきこなし
外でも働いていましたから忙しいはずなのに
いつも元気で明るい人でした

なので 私が家でゴロゴロしていると
外で遊べとよく言われはしたものの

子育ても私で3人目
慣れたものなんでしょう
割と放任主義で口うるさいことは言わず
出かけるときは声をかけてくれる

優しい人でした

子供からしてみれば楽な親だったのではないかなと思います

外出するとよく知り合いに会いました
母は自分から声をかけるタイプで元気よく話しかけ 
おしゃべりが始まります

わたしは 相手の反応や顔色で
(この人はママのこと好きじゃないんだ)
とかそんなところばかり見て
気にしたりしてましたね

そして
母が毎回言う不思議な決め台詞があったんです

それは相手の方がわたしを見て
「あらぁ大きくなったわねぇ」などとおっしゃると 
母が
「そうでしょう~顔も私にそっくりで
 うりふたつでしょう~
 ・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・

 間違いなく私の子よ~

 わーははは!」


って言うんです 
?????
そこは冗談として一発ウケて話を締めたい
ということなんですが

なんでわざわざいちいち 毎回言うのかな
って子供ながらに思っていて

もう だれかに会った時点で
(あコレまた今日もいうぞ)と思うんです

相手がウケてくれるとは限らないので
私は少し恥ずかしいような
居心地が悪いような気持ちになっていましたが
母が大げさに笑うので
つられて笑う感じです

声が大きすぎるのも
なんだか苦手でした


後々知ったのは姉が父親にそっくりで
母とは全く似ていなかったために当時はよく

「本当にあなたの子なの?」
と言われたそうなんです

ひ、ひどいですね。

それと

大元のネックになっているのが
私の祖母 母の母と血がつながっていない
ということ

生みの親は別にいて
もらわれてきた子だということ
とうぜん顔も似ていませんでしたが
私的には気づいていませんでした

私が二十歳の時に教えてくれたことです

母が幼少期から成年になるまで
どんな思いで生きてきたのか
詳しくは聞けていないのですが
そういう事実とリンクして
元々の負けず嫌いも追い風となり

聞いてもないのにこの子は私の子ですからと
アピールして回ったのでしょう


大人になっても
強いコンプレックスを抱えていた
何かに執着してしまうという人間の弱さ
あんなにいつもハツラツとしている女性でも
弱い部分があるのだと
チラリ垣間見た気がしました


母は本当に負けず嫌いなので
弱いところを全く見せませんでした


癌で他界したのは6年前

手術でさえ 術後さらっと告げるのみ
遠く離れているのをいいことに
ずっと癌になったことを隠していたんです

私は母のそういう強がりなところがどうし
ても納得できず

自分からは なかなか上手く歩み寄る行動を
取れずにいました

今思えば
只々 愛してるよと
言えばよかったのに、、、

私は最期まで甘ったれな末っ子さんとして
母と別れなければなりませんでした

わたしの出産したばかりのタイミングと重なった
という言い訳もむなしく

何のお手伝いも出来ずに
やせ細った彼女に寄り添えなかった

不詳の娘なんです



病床で 父の食事の心配をしている母
まだやることがある
父に頼まなきゃいけないことがあると
頑張ろうとする


なんでそんなに頑張ろうとするの
なんで私に甘えてくれないの

そんなに頼りないですかわたしは
私を避けているようにさえ感じました


息を引き取ったときは父と私がいました



でももういいんです
自分も子育てをしているので分かります

母が貫き通したかったこと
アナタの生き様はこの目でしっかりと

最期まで見届けさせて頂きました



生前 よく言っていました

「全部やってみたらいい
 私は一人で全部やった
 おばあちゃんは手伝ってくれなかった」

厳しい時代に強く生き抜いてきた母ですが
色々聞きたくてももう
話すことは出来ません

さみしいばかりです



私が生まれてからずっと
些細なことには目をつぶり
私を信じて深く想いを聞いてくれた

反抗してもいつも声をかけてくれ
今 の幸せを願い 助けてくれた

いつも明るくいてくれた

愛してくれた


本当に本当にありがとうございました

こんな私を育ててくれてありがとう
感謝してもし尽くすことはないです

何もできなくてごめんなさい

許してください

貴方を

愛しています




次回は 生い立ち②兄姉との記憶 です


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