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京都大学人文科学研究所の研究会に参加しました

 京都大学人文科学研究所の共同研究「禅研究班」の研究会に参加し、重田みち先生(京都芸術大学教授)の「自著を語る」(『風姿花伝研究』臨川書店)のコメンテーターを務めさせていただきました。

 世阿弥能芸論の学問的な研究は、吉田東伍『世阿弥十六部集』などの刊行からはじまり、当初「花伝書」の名前で紹介された世阿弥の芸論は、現在は写本の題名の『風姿花伝』として紹介されています。
 しかし、『風姿花伝』という題の写本は、第一年来稽古条々から奥義に至る五篇を収録したもので、第六花修・第七別紙口伝は別々に伝えられ、しかもタイトルは「風姿花伝」ではなく、「花伝」です。

 これについて、能楽研究の第一人者だった表章先生(当時、法政大学能楽研究所所長)が、世阿弥は当初「花伝」という題で芸論を書き連ね、ある時点で『風姿花伝』という題で再編成され、増補改訂が行われた、という説を発表されました。
 これは画期的な研究で、世阿弥能芸論の読み直しを迫るものだったのですが、能楽研究の第一人者のご論だったこともあり、それについてさまざまな議論が戦わされるというよりも、それが定説化して、それ以上の議論がしにくい雰囲気になってしまいました。
 それに果敢に切り込まれたのが重田先生で、今回のご本はそのご研究の集大成になっています。
 そのご高著のご紹介のコメンテーターとして、ご指名いただきました。

 決定的な新資料が発見されたわけではなく、推論を重ねてその妥当性を問うもので、現時点で、私が「なるほどそうだろうな」と得心したこと、まだ腑に落ちていないこと(これは、批判というのではなく、まだ重田先生のご説を私が理解できていないだけなのかも知れませんが)、それぞれ二点指摘させていただきました。

『風姿花伝』への改訂の際の足利義持文化圏の影響

 世阿弥の能芸論には、後になるほど禅の影響が見られ、表章先生の世阿弥と禅についてのお考えは、盟友の香西精さんの説を踏まえられたものです。
 香西さんは、曹洞宗の奈良県補厳寺の過去帳に、世阿弥と思われる人の命日と戒名が記されているのを発見され、世阿弥の書簡で補厳寺二代が言及されていることから、世阿弥能芸論への世阿弥の参禅体験、曹洞宗の影響を指摘されました。

 しかし、足利義持の時代に、世阿弥は夢幻能の様式とそれを演じるための二曲と三体を核とする体系的な芸論を構築し、代表曲を多数発表していて、それは足利義持の美意識に対応するためのものだったと考えられています。

 足利義持の時代に行われた「花伝」から『風姿花伝』への改変での禅の影響は、参禅体験ではなく、将軍義持周辺の文化圏に属する人との交流によるもので、臨済宗の東福寺との交流、(当時、五山では朱子学も学ばれていたので)朱子学の影響も見られる、というご説は、説得力があると感じました。

『風姿花伝』撰述の理由

 世阿弥は足利義持時代に夢幻能の様式とそれを演じるための体系的な芸論を構築をしていて、それは足利義持の美意識に対応するための努力だったと考えられています。
 自身の新しい芸風を確立したのなら、なぜ(改訂増補はあるにせよ)古い芸論をこの時期に改訂増補する必要があったのかについて、重田先生は、世阿弥の実子の十郎元雅への相伝のため、とされています。

 世阿弥の能芸論には、世阿弥が(実際には世阿弥の考えやとりまく状況への変化への対応が含まれていますが)自分が父親の観阿弥から受け継いだ芸と自分の新風を対比的に語っているところがあり、
 『風姿花伝』への増補改訂は、実子の十郎元雅への相伝のためのものと考えることで、『風姿花伝』に収録された内容、世阿弥の選述意図がはっきりすると感じました。

 『風姿花伝』第四神儀は、(近代的な意味での歴史ではありませんが)神々の世界のアメノウヅメの舞やインドの祇園精舎での説法を妨害しようとする外道を鎮めるための物まねを踏まえ、聖徳太子が秦河勝に命じておこなわせた六十六番の物まねに能は始まるという内容で、
十郎元雅に、自分の工夫した芸を教えるだけでなく、世阿弥自身が父の観阿弥から受け継いだ芸をも伝えることで、家の芸の継承者としての自覚を求めたものと考えると、『風姿花伝』選述の意図がはっきりします。

現時点で腑に落ちていないもの

重田説ではたびたび改訂が行われたとされているが、その契機

 重田説では、度重なる改訂とその理由として、世阿弥を取り巻く状況の変化が説かれています。取り巻く状況の変化が反映されているのはわかりますが、そんなたびたび書き直しをおこなう機会があったのでしょうか?

 「花伝」『風姿花伝』は相伝書で、ある人に相伝して、別の人にその教えを再び相伝する際に、それまでの状況を踏まえて改訂が行われるのはわかります。
 重田先生が想定する度重なる書き換えがおこなわれたのは、どういう場面でだったのでしょうか。

第七別紙口伝の弟四郎相伝本と元次相伝本の関係

 重田先生の著作には、付録として『風姿花伝』の校訂テキストが付されています。
 これは研究に役立つもので、五篇からなる『風姿花伝』の現在に伝わる写本はすぐれたものではなく、吉田東伍の紹介した『世阿弥十六部集』の元になった松廼舎文庫本は関東大震災で焼失してしまっているのですが、いい本だったということがわかってきたのですが、元本は焼失し、翻刻にはミスや改変があるので、研究には使いづらい状況でした。
 それを吉田東伍の紹介した『世阿弥十六部集』を底本としつつ、他の本によって誤校や改変と思われる箇所を訂正した校訂テキストは、今後の研究に役立つと感じました。

 第七別紙口伝は、観世宗家に伝わった弟四郎への相伝本と元次(十郎元雅の初名と推測されている)相伝本の二系統の本が存在しますが、前者は世阿弥自筆本が残るにも関わらず、焼損で読めない箇所があるためか、これまでの研究にはあまり生かされてませんでした。
 重田先生のご本では、弟四郎相伝本と元次相伝本の校訂テキストが対比的に掲げられていて、世阿弥が別の人に相伝をおこなった際に、どういう改変をおこなったかを、具体的に知ることができます。
 表章説では、世阿弥自筆の残る弟四郎相伝本の成立は応永十年頃とされていましたが、重田説では、弟四郎相伝本にも足利義持時代の改変が認められるということで、二つの相伝は近接した機会におこなわれたことになります。

 成立のはやい弟四郎相伝本では「善悪不二、邪正一如」「三界唯一心」という仏教の言葉を借りて、教えが整理されていますが、元次相伝本ではカットされている。重田説でも、教えの成熟とされているこの改変が、本当に短期間でおこなわれたものなのか。

ということを指摘させていただきました。
 後の二点についても、重田説批判というより、今の私にはまだ得心できていないだけなのかもしれません。
 いずれにせよ、重田先生の長年にわたるご研究とそれが単行本としてまとめられたことをお慶び申し上げると共に、これが契機となって、世阿弥能芸論についての議論が活発になることを期待し、祈念します。


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