見出し画像

『宝性論』ー仏性(如来蔵)と菩提心

 継続的に京都で受けていた『宝性論』(究竟一乗宝性論)の解説が今回で終わりました。
 調べると、私が参加したのは、2013年からのようです。
 最初からではなく、すでに何回か教えが行なわれいて、その回も数ページしか進まず、最後まではまだまだ時間がかかることがわかりました。
 驚いたのは、たった数ページの解説だったのですが、テキスト全体がどういうもので、何を説こうとしているのかがわかったことです!
 その読みの丁寧さと理解の深さに感激し、毎年この季節に、京都に通うことになりました。
 この季節は、京都も涼しく、若紅葉も美しくて、私には充実した時間だったのですが、コロナで一時中断し、今年、復活して、残っていた最後の回がおこなわれました。

 この教えを見つけて参加したい、と思ったきっかけは、東京にいらっしゃったNリンポチェから、リンポチェの重要な先生のお一人のクヌ・ラマ・リンポチェ(1894-1977)の書かれた『菩提心の讃嘆』の教えを受けたことです。

 クヌ・ラマ・リンポチェは、ダライ・ラマ法王の重要な先生でもあり、法王は、クヌ・ラマ・リンポチェからシャーンティデーヴァ『入菩菩薩行論』の教えを受け、それまでは、空性は勉強と修行を続けていけば、いずれ理解できるだろうが、菩提心は理想論だろうと思われていたのが、
教えを受けて、菩提心の大切さを理解できた、
ダライ・ラマ法王にとっても、大きな転換となる学びでした。
 インドでの教えでは、ダライ・ラマ法王が『入菩薩行論』の教えをされながら、その素晴らしさに感動し、涙を流す姿がたびたび目撃されています。

 そんな、ダライ・ラマ法王のお考えを大きく変えたクヌ・ラマ・リンポチェの『菩薩の讃嘆』ですから、
当然『入菩薩行論』の素晴さを説かれているのだろう、と思って教えを受けたのですが、
テキストでは、『入菩薩行論』と同じくらい重要な教えとして、『宝性論』が取り上げられていました。

 『宝性論』は、仏性(如来蔵)を説く論書で、チベットの伝統では、弥勒の五法のひとつとされています。
 菩提心と仏性??『入菩薩行論』と並ぶ重要性??
 頭のなかに???が並び、昔、高崎直道先生がサンスクリットから訳された『宝性論』講談社は買って持っていたのですが、読もうとしても、何が何やらわからず、積読になっていました。

 仏性(如来蔵)は、伝統的な理解においても正しく理解することのむつかしい、誤解も多い教えで、
中国に渡って教えを受けた道元禅師は、一切衆生に仏性があるのだから、修行なんてしなくても、死ねば「私」が無くなって仏性だけが残るのだから、修行しなくても誰でもさとることができる、という説を、非仏教徒の考えで、仏教とは異なる、と批判されています。
 しかし、日本の伝統でも、そういう修行不要論も力を持ち、それを批判されて、そもそも仏性の教え自体がヒンドゥー教のアートマン説を取り入れたもので、仏教の考えではない、と説く研究者の先生もいらっしゃいます(「如来蔵思想は仏教にあらず」)。
 修行不要説が邪見なのは、道元禅師の説かれる通りですが、だからといって、仏性の教え自体が間違いではない、というのが、道元禅師やチベットの伝統の理解です。

 釈尊は、「作られたもの(有為=うい)は無常であり、苦である」と説かれており、もし仏陀の境地が新たに獲得されるものだとしたら、仏陀の境地は作られたものになり、失われるものになってしまいます。それでは苦しみからの解放にはなりません。

 また、一切衆生には仏性が備わっており、誰でも仏陀になることができる、この教えを否定してしまうと、「一切衆生が苦しみから解放され、仏陀の境地を得ることができますように」という菩薩の誓願は、実現不可能なものになってしまいます。

 仏性は、一切衆生に備わっていますが、通常、分厚い汚れに覆われていて、顕わにするためには、修行をおこなって、仏性を覆い隠している汚れを取り除く必要があります。
 『入菩薩行論』は、菩提心を起こし、仏陀の境地を目指す、という観点で書かれていますが、それと、仏性の汚れを除くべきと説く『宝性論』で説かれている実践は、まったく同じで、同じことを、スタート地点から見るか、ゴールから見るかの、視点の違いにすぎません。

 幸運なことに、きっかけとなったNリンポチェからも、『宝性論』の別の註釈書の解説を受けることができました(ケンポ・シェンガ註)。

 『宝性論』と仏性(如来蔵)の教えについては、拙著『チベット仏教入門ー自分を愛することから始める心の訓練』(ちくま新書)の第三章 伝統仏教学のすすめ、3 如来蔵の教え で紹介しています。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?