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二つの菩提心(世俗菩提心・勝義菩提心)の勉強会

勉強会を始めようと思ったきっかけ

この勉強会を始めようと思ったきっかけは、Facebookで、ダライ・ラマ法王のゾクチェンの師だった故トゥルシク・リンポチェの短い法話の映像を見つけたことです。

チベット語のみで、訳がないので、私の乏しい語学力では、すべてを理解することはできませんが、おおよそ、次のようなことをお話しされているのではないかと思います。

私たちは、幸せを望んでおり、衆生も同じです。最高、究極の幸せが、仏陀の境地で、それには二つの菩提心が必要です。
世俗菩提心は、一切衆生を苦しみから解放するために仏陀の境地を目指そうと決意することで、ロジョン(心の訓練)の実践をおこないます。
勝義菩提心は、物事の真のありようを理解することで、師から心の本質の導きを受け、その境地に留まります。

トゥルシク・リンポチェからは、幸運なことに、日本やインド、ネパールなどで、何度か教えを受けることができました。フランスで教えを説かれるという情報を得て、フランスまで行ったこともあります。
久々に動画ではありますが、お姿を拝することができ、またその柔らかなお声や、短いですが本質を突いた教えに、感動しました。

その喜びを他の方とシェアしたい、というのが、そもそもの出発点です。

チベットの僧院教育における学習

チベットの僧院教育においては、
世俗菩提心については、シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』で学習します。
勝義菩提心については、マイトレーヤ(弥勒)の教えとされる『宝性論』で学習します。

来日された高僧の教え

来日された高僧の教えでいうと、たびたび日本を訪れてくださったガルチェン・リンポチェの教えのうち、

トクメー・サンポ『三十七の菩薩の実践』は、世俗菩提心を中心に、勝義菩提心も説かれています。
来日時の教えをYouTubeで日本語通訳(ラマ・ウゲン師)つきで視聴することができます。

『ガンジス河のマハームドラー(マハームドラー・ウパデーシャ)』と『法身普賢の誓願(クンサン・モンラム)』は、勝義菩提心について説いています。

私は、他の人に対して偉そうに「菩提心をおこしなさい」と言うような立場になく、まだまだ学習中の身です。
しかし、多くの高僧から惜しみなく貴重な教えを授けていただき、その加持のおかげで、仏教について、少しは説明することができるようになりました。
私でもお話しできることはお話しし、関心のある方とシェアして、一緒に学んで行きたいと思います。

世俗菩提心と勝義菩提心の関係

勝義菩提心は、真如、法性、仏性、空性、さまざまな言葉で言い表わされますが、実際には知的に理解することが不可能な、言葉を越えた境地です。

チベットに伝わる実践法のうち、奥義とされるマハームドラー(大印契)ゾクチェン(大究竟)は、勝義菩提心の修行で、師から言葉を越えた境地に導かれて、その境地に留まります。

では、世俗菩提心を修行することなく、勝義菩提心の修行だけできるかというと、実際には困難だと思います。

原理的には、利他の心と空性の理解は相補的な関係にあり、利他の心を養うと、空性が理解しやすくなり、空性についての理解が進むと、利他はおこないやすくなる、と言われています。
それは、利他の心も、空性の理解も、どちらの妨げになっているのも、我執(がしゅう)、自分の実体視と自己愛着だからです。
菩提心が生じるのと空性を理解するのとどちらが先かは、その人の資質による、と言われています。

では、利他の心を養い、(世俗)菩提心をおこすことなどしなくても、師から心の本質に導いて貰いさえすれば、ゾクチェンやマハームドラーの実践ができるかというと、実際にはむつかしいと思います。

仏性は一切衆生に備わっていますが、通常、それは汚れによって覆いつくされています。その状態で、師が導いたとしても、心の本質は知識や、他人が与えることができるようなものではないので、心の本質に気づくことはできません。
チベットの伝統で、通常、ゾクチェンやマハームドラーの本行に先立って、数十万回の前行が必要とされるのは、そのためです。

ある師は、「一切衆生に心の本質が備わっているなら、なぜ直ちに心の本質の導きをせず、前行をやる必要があるのか」という質問に対し、

あなたたちに心の本質が備わっているというのは、みんな鏡を持っているようなものだ。
しかし、その鏡は、いまはべっとり汚れが付いていて、光っているところが少しも見えない。その状態で、私が「ほら、そこに鏡があるだろう?」と言っても、あなたたちは鏡に気づくことはできないだろう。
すこしは磨いてもらわないといけない。そうやって、光っている部分が少し見えるようになった時に、私が「ほら、そこに鏡があるだろう?」と言ったら、あなたたちは、「あっ、本当だ」と気づくことができるだろう。
前行をおこなうのは、そのためだ。

とおっしゃっていました。

前行と本行の関係

とはいえ、何十万回もの前行をやっている間は、なんで延々とこんなことをやらないといけないんだ、はやく本行にはいりたい、と思うのは人情です。しかし、本行と前行の違いは、実は修行法ではなく、その人が心の本質をさとっているか否かでしかありません。
心の本質をさとった人が実践すれば、前行の修行法といわれるものも、そのまま、本行の実践になります(そのように作られています)。

ですので、師がわざわざ何十万回もの回り道を課しているわけではなく、私たちが最短距離で心の本質にたどり着くことができるよう、指導してくださっており、問題は私たちの資質のほうにあるのです。

伝統により多少の違いがありますが、四十万回、五十万回の前行の修行というのも、いってみれば標準モデルのようなもので、心の鏡を覆っている汚れの厚さはカルマ(業)によって違っていますから、四十万回、五十万回終われば、心の本質に導いてもらうことができる、その権利を獲得できる、というものではありません。

西洋社会で高名だったゾクチェンの師で、
「私は誰だろうと、習いたいという人には、最初からゾクチェンを教えます。それでもし問題が生じたら、帰依が足りない人は帰依の修行、菩提心が足りない人は菩提心の修行をおぎないなさい。私はあらかじめ五十万回の修行をしなさいとは言いません」
という指導をなさる方がいらっしゃいました。
これはあくまでも、私の推測でしかありませんが、それは、前行など必要ない、ということではなく、
(先ほどの別の師の、鏡のたとえでいえば)鏡が汚れで覆いつくされている状態で、ゾクチェンの修行法を習ったとしても、実際には修行できない。そのことに自分で気づき、泥を取り除く必要性を実感したうえで、前行をやらないと意味がない、というお考えだったのでは、と思います。
西洋社会で前行を教えると、五十万回、何の疑問も感じずに達成して、「私は心の本質に導いて貰う権利を得た!」「なに、導くことはできない?詐欺だ!」と間違って受け止めてしまう人が出るのを危惧されたのではないでしょうか。(私の推測でしかありませんが。。)

前行には、①人身の得難さ、②死と無常、③輪廻のなかに楽はない、④因と果、について考えて、輪廻からの出離の心をおこす共通の前行と、
①帰依、②菩提心、③金剛薩埵の浄化法、④マンダラ供養、⑤(師の智慧と一体となる)グル・ヨーガといった密教の修行をおこなう特別な前行があります。

冒頭で紹介した、故トゥルシク・リンポチェは、「前行と本行でより重要なのは前行のほうで、共通の前行と特別な前行とでより重要なのは、共通の前行だ」とおっしゃっていました。
実は、これはチベットの一般的な説明ではなく、他には、ガルチェン・リンポチェが所属するディクン・カギュ派の開祖のジクテン・スムグンがそうおっしゃっているそうです。

もちろん、どちらが重要かというのは、なにを基準に考えるかで違ってくるでしょうから、どちらの説が正しくて、どちらの説が間違っているということはないと思います。何より、私は、トゥルシク・リンポチェの説明をお聞きして、すっかり納得してしまいました。

ともあれ、一切衆生に心の本質は備わっている、「はずれくじ」はないので、あきらめず、こつこつ頑張るほかありません。

出発点は、人間に生まれたことの得難さに気づくこと

その出発点は、今、百パーセント満足はしていないとしても、こうやって人間として生まれ、教えを聞く機会があり、それを理解する能力が備わっているというのは、衆生のなかで極めて例外的な幸運だ、と気づくことにあります。

これは、日本仏教も同様で、三帰依文で、

人身受け難し、今已(すで)に受く。
仏法聴き難し、今已(すで)に聴く。
この身今生において度せずんば、
さらにいずれの生においてかこの身を度せん。
大衆諸共に至心に三宝に帰依し奉るべし。

と説かれている通りです。

この、自己に対する肯定的な感情こそがあらゆる修行の出発点で、利他や空性の理解も、この肯定的な感情をより深め、広げていくものと言ってもいいと思います。
自分の幸せだけを幸せだと感じ、他人の幸せを見て腹を立てたり嫉妬するようでは、実際には幸福を感じる機会はきわめて限られてしまいます。
他の人、さらにはすべての衆生の幸せを、自分の幸せと同様に喜ぶことができるようになれば、どんな状況でも、幸せな感覚は失われることはありません。
西洋社会、特にアメリカで、多くの人が瞑想の実践に関心を持つようになったのは、f-MRIなどを使って、瞑想中の修行者が極めて強い幸福感を感じていることが、実験で明らかになったからだ、と言われています。

環境の厳しいチベットや、古代のインドでは、「生きているだけで、ハッピー」という感覚を持つことはさほどむつかしくなかったかもしれません。
『三十七の菩薩の実践』や『入菩薩行論』のような教えでも、「この恵まれた機会を生かすために」というところから始まっていて、いかにして「自分はラッキーだ」という肯定的感情をおこすかについては、説かれていません。

しかし、現代の日本人にとっては、それはかなりハードルの高いものになってしまっています。
何度かの来日で、おそらくそのことに気づかれ、ガルチェン・リンポチェが教えに先立つ一般講演で、お話しされたことがあります。

ガルチェン・リンポチェによれば、「人身の得難さを理解できただけで、牢獄のなかでも王様のような気分でいることができる」そうです。

ご自身がチベットで長い間、囚われの身となり、何度も死の危険や、同じ部屋に囚われていたチベット人が怒りのあまり首を切って自殺して、その血しぶきがリンポチェに降りかかる、そんな凄惨な体験をされながら、私が生き抜くことができたのは、仏法があったからだ、と、釈放後、世界を回って教えを説き続けておられる。その方のお言葉なので、これはど確かなものはありません。

(二つの菩提心の勉強会は、6月7日(月)開始の予定です。今回は、チベット文化研究所と関西の私の勉強会の共同主催になっていて、どちらからでもお申込みいただくことができます。すでに研究所の会員になっている方は、研究所を通じて申し込まれると、会員割引が適用されます。)


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