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『般若心経』の「色即是空、空即是色」ー仏教のわかりにくさ

 『般若心経』は、釈尊のさとりの境地を観自在菩薩(観音さま)が理解し、それを釈尊の高弟の舎利子(シャーリプトラ)に説明する、という経典です。
 そこで説かれる「色即是空、空即是色」は有名ですが、いろいろ説明を聞いてもよくわからない、と感じている方は多いのではないでしょうか。
 それは正常な反応です。迷いの世界にいる私たちは「色(しき。眼に見る「かたち」)」であれば「空(くう)」ではないし、「空」であれば「色(かたち)」ではないと感じています。仏教は、その捉え方こそが苦しみの真の原因と考える教えで、そこから解放された釈尊の境地を説くのが『般若心経』だからです。
 仏教がわかりにくいのは、私たちが「現実」と感じている捉え方に問題があり、そこから解放されない限り、一時的に満足することはあるとしても、苦しみから完全に解放されることはない、という教えであるためです。

 数年前、日本在住のテーラワーダの長老が『般若心経』を批判し、「色」から「空」に行ったら仏教は終わるのであり、「色即是空、空即是色」はありえない、と発言されたことがありました。
 これは、伝統的な仏教理解の違いに由来します。
 古代インドの部派の流れを汲むテーラワーダでは、阿含経典は認めますが、大乗経典は認めません。
 阿含経典で、釈尊は輪廻の苦しみから抜け出すべきことを説かれ、それを理論化した部派の仏教理解と、その流れを汲むテーラワーダでは、「涅槃」(苦しみから完全に解放された境地)は輪廻の外の、目指すべきゴールです。
 ですから、テーラワーダの長老は、「色」から「空」にたどり着いたら、仏教は終り、と説かれたのです。

 それに対して、日本仏教や中国仏教、チベット仏教などの北伝は、阿含経典だけでなく、大乗経典も認めます。
 それは古代インドのナーガールジュナ(龍樹)の仏教理解に基づくものです。日本仏教の伝統では、龍樹は「八宗の祖」として尊ばれてきました。

 ナーガールジュナの主著とされる『中論』25章では、輪廻と涅槃の無別が説かれます。
 仏教は、私たちの苦しみの真の原因は、私たちは自分が捉えているものを「現実」と疑わないことにある、と説きます。私たちは「いいもの」と捉えたものは、何とかして手に入れたいと思い、努力し、「わるいもの」と捉えたものは、何とかして排除したい、遠ざけたい、と努力します。
 私たちは「いいもの」を手に入れることができない、「わるいもの」を排除できないから苦しいのだ、と考えていますが、そのやり方ではどこまで行っても苦しみはなくならない、自分たちが「いいもの」「わるいもの」と捉えてそれを「現実」と疑わないことこそ、苦しみ真の原因なのだ、とさとられて、苦しみから解放されたのが釈尊です。
 自分が「色(かたち)」と捉えたものが「現実」と疑わないことが苦しみの真の原因なのだから、それから解放された境地は、間違った思い込みから解放されただけで、実際には「色」の外に「空」があるのではない、というのが、『般若心経』の内容です。
 阿含経典を理論化した部派の仏教理解では、涅槃は輪廻の外にある目標ですが、苦しみから完全に解放された仏陀である釈尊にとっては、輪廻の外に涅槃があるのではない、それを知っているのは仏陀以外にはいないはずだから、それを説いた大乗経典は仏陀の教えと認めなければならない、というのが、ナーガールジュナの考えでした。

 しかし、ここで注意しなければならないことがあります。理解の順番を正しく認識する必要はありますが、単純に、この仏教理解の違いを、どちらが正しいか、とか、どちらの理解が優れているか、と捉えてはならない、ということです。
 釈尊が阿含経典で説かれているように、輪廻の外の涅槃を目指さなければ、私たちは輪廻と涅槃の無別の境地に到達することはできません。
 「色」から「空」を目指すテーラワーダに対して、「色即是空、空即是空」を説く大乗の仏教理解が正しい、とか、すぐれている、と考えてしまっては、釈尊の「色即是空、空即是色」の境地にたどり着くことはできなくなるのです。

 残念なことに、中国では、チベットと比べ、多数の阿含経典が翻訳されたのですが、阿含経典と大乗経典について、大乗経典の内容が優れている、と考える傾向があり、それは日本仏教にも影響を与えています。
 実はそれこそが、私たちが『般若心経』の「色即是空、空即是色」を真に理解し、その境地に到達するための妨げになっているのです。
 日本仏教の各宗派の開祖の高僧方――弘法大師空海や、道元禅師、親鸞聖人は、「色」から「空」を目指さなければ、「色即是空、空即是色」の境地にたどり着くことはできないということを理解された方で、それを私たちに教えられています。
 もし、苦しみからの真の解放を願うのであれば、私たちは、教えの優劣や正邪を争うのではなく、それら高僧方の説かれていることに耳を傾けるべきなのです。

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