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空(くう)の教えのむつかしさ(その1)

 ナーガールジュナ(龍樹)やその『中論』について、大乗経典に依拠して新たに空(くう)の教えを説いた人、とイメージしている人は多いと思います。
 『中論』は、いくつか日本語訳が出ていますが、自分は読んでみたが、やっぱりそういう印象だったという方もいらっしゃるでしょう。おそらく、当時のインドでも、多くの人の認識はそのようなものだったのではないかと思います。
 問題は、ナーガールジュナが『中論』のなかで、それは誤解である、ときっぱり言っていることです。

 『中論』は、基本的に、それまでの仏教理解に立つものとの応答という形で書かれていますが、終わりに近い(全二十七章)第二十四章で、「すべてが空(くう)だというのは、道徳否定の虚無論だ」と論難する対論者に対して、それは誤解に基づいた非難であると反論しています(自分が馬に乗っているのに、乗っている馬を数え忘れて「一匹足りない!盗まれた!」と騒いでいるような論だ、と面白い批判の仕方をしています)。
 ナーガールジュナの『廻諍論(論争の回避)』という論は、伝統的理解では、『中論』に対する誤解に対して補足的な説明をした論とされていて(近年の研究では、厳密に『中論』のみをナーガールジュナの著作と見なす傾向があり、そうであれば、ナーガールジュナの教えの継承者的立場の人が、ナーガールジュナに仮託して反駁したということになるのでしょうが)、そこでは、「すべてを否定するならば、その前提として、「ある」ということを認めなければ、「ない」と否定することはできない」という論難に対して、ナーガールジュナが「自分は何も否定していないから、その論難は当たらない」と答えています。『中論』では全体の約2/3位で、何らかの実体を認めるそれまでの仏教理解の立場(阿含経典の言葉を元に理論化をおこない、どう理論化するかで、いくつもの部派に分かれている状態だった)に対して、あれも成り立たない、これも成り立たないと否定しまくっているのですが。。。
 『中論』を読んで、ナーガールジュナは詭弁を弄して、いちゃもんをつけているだけ、と感じる人も、正直、少なくないと思います。実際、インドで書かれた『中論』の詳細な註釈書『明句論(プラサンナパダー)』では、「お前のような議論の為の議論につきあうのはもう御免だ」という対論者側の心の声(?)が付け加えられているほどです。

 これは「空(くう)」というものが、実際には言葉で表現することのできない、言葉を越えた境地であることに原因があります。言葉で「空(くう)」を語ることに、そもそも無理があるのです。
 伝統的な空(くう)の説明として、「有(実在論)と無(虚無論)の二つの「辺」(極端論)を離れたもの」、という説明がありますが、私たちが何かを認識する場合は、それが「ある」か、そうでなければ「ない」ですから、「有と無の辺を離れた」というのは、実際には対象として認識することも、言葉を使って表現することもできない境地です。

 何年か前、ダライ・ラマ法王が日本での教えのなかで(たしか宮島の大聖院での教えではなかったかと思います)、「アサンガ(無着)は唯識を説いたけれど、聖者(パクパ)なので、中観(ウマ)です」とおっしゃり、教えに参加していた知人たちと「あれはどういうことなのだろう?」と(ごく狭い範囲でですが)話題になったことがあります。
 伝統的理解では、中観派の基本イメージが、「すべては空であると主張する人」ではなく、言葉を越えた空(くう)の境地を実際に体験している人、であることに注意をする必要があります。仏教の定義では、言葉を越えた境地をまだ体験していない人、自分と自分が捉えている対象が「現実」だと思い込んでいる人が「凡夫」で、対象を何も捉えない深い瞑想の境地で言葉を越えた空(くう)の境地を体験した人が「聖者」です。
 チベットでは、中観派を帰謬論証派と自立論証派に分類しますが、これも、一切対象を捉えない瞑想の境地で空(くう)を体験し、空(くう)を言葉で表わすことはできない、「〇〇は空ではない」という言い方しかできない、というのが帰誤論証派の基本イメージで、瞑想中に空(くう)を体験しても、瞑想を終えれば感覚は再び対象を捉えるようになるが、その時は以前のように実体としては映らなくなる、というのが、真実には言葉で表わすことができないが仮に言葉で表わすことができる、という自立論証派の基本イメージです(仏教用語を用いると、等引無分別智と後得智に対応)。

 しかし、そうなってくると、「空(くう)」について、いくら説明を聞いても分かることはない、実際に体験しない限りわからない、ということになり、そうなってくると、「空(くう)」の教えは聞いても仕方ないものとして、衰えてしまいます。
 実際、チベット仏教四大宗派の最大宗派ゲルク派の開祖とされるツォンカパ(ロサン・タクパ。1357-1419)が師(サキャ派の方)から中観を学ばれた時は、そのような状況だったようです。
 実は、伝統的な「有と無の二辺を離れている」という説明も、そもそも言葉で表わすことのできない境地ですから、説明として十分ではなく、わかりにくい上に、修行において誤解が生じる危険があります(瞑想中に無思考の境地を体験した時に、そのときは「ある」という思いも「ない」という思いも生じませんから、自分は言葉を越えた空(くう)を体験した!と勘違いしてしまう)。
 ツォンカパは、深い瞑想体験がなくても空(くう)がどういうものかイメージできる画期的な説明をして、チベットで仏教学を盛んにしました。
 ただ、そのことで、修行体験がなくても知的に空(くう)を理解することが可能、とか、釈尊の阿含経典の教えに由来する「有と無の二辺を離れている」という説明が間違いで、ツォンカパの説明こそが正しい、とか、別の誤解を生んでしまうのですが。。。
(ツォンカパは『菩提道次第・大論』の最後に「これを繰り返し考え、理解できたら必ず密教の道に入るように」と指示していますし、瞑想中の心のコントロールについても教えのなかで具体的な指示があり、修行経験豊富な方で、文献にこだわりのある学者タイプの方ではありません)

 話を元に戻すと、『中論』のわかりにくさ、誤解されやすさは、本来言葉で表わすことのできないものを言葉で説くことに起因します。それが釈尊のさとりと教え以来の、仏教の本質に関わるものであることは、『中論』二十四章で示されています。

 言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は説き示されない。最高の意義に到達しなくては、涅槃は、証得されない。誤って見られた空であること(空性)は、智慧の鈍いものを破滅させる。あたかも、誤って捕えられた蛇、あるいはまた、誤ってなされる呪術のように。それゆえ、鈍い者たちには、法(教え)が体得され難いことを慮って、法(教え)を説示しようとする、牟尼の心は、押しとどめられた。
『中論』二十四章10~12(三枝充悳訳註『現代語訳 中論ー縁起・中・空の思想』第三文明社レグルス文庫の訳を元に一部表記を改変)

(今、オンラインで「ナーガールジュナ(龍樹)と日本の高僧たち」という勉強会をやっているのですが、本来、『中論』のようなむつかしい論書は、いろいろ意見や議論を出し合いながら読み進めていくもので、応答がスムースではないオンライン形式には不向きで、自分でも今日の話はかなり説明不足だと感じたので、今日(9月25日。第4回)の補足として、急遽書きました。今日の話の部分的な補足なので、勉強会以外の方には話の流れがわからず、わかりにくいと思います。)

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