エッセイ#5『電車』
僕以外に誰もいない電車に乗っているとなんだか安心した心持ちになる。
日常から解放された気分になる。今は何もしなくていいんだ、と。
体を揺らしながら、ガタンゴトンと車内にこだまする音に耳を傾ける。
車窓から移りゆく景色を眺めながら、
このままどこか遠くへ行ってしまいたい気持ちになる。
僕を知らない場所へ。僕が知らない場所へ。
こびりついた得体の知れない不安を胸に抱えながら、
同時に満ち足りた想いにもなる。
相反する気持ちのせめぎ合い。つな引き。
窓から差し込む柔らかい日差しに抱かれ、
僕はそっと瞼を閉じた。
◯
目を開けると、
知らない間にたくさんの人が乗っていた。
みんなで乗る電車も好きだ。
一緒に旅をしている気分になるから。
この人はどこに行くのだろう、この人は何を考えているのだろう。
そんなことに思いを馳せながら、観察をする。
スマホとにらめっこをしている若い女性。
目を閉じて音楽を聞いているサラリーマン。
からだを寄せ合って眠っている学生。
1ページ1ページを丁寧にめくり本を読むおばあさん。
きゃっきゃと会話が弾んでいる女子高生。
ゲームに盛り上がる男子高生。
そして、
人間観察をする僕。
世の中には本当にいろんな人がいるなぁ。
こうやって世界は回っているんだなぁ。
電車が暗いトンネルにはいる。車窓に僕の顔が映る。心に影がさす。
何気なく観察していた。でも、内側まではわからない。
あの若い女性も、あのサラリーマンも、あの学生も、
あのおばあさんも、あの女子高生も、あの男子高生も、
僕が知るよしもない、辛い何かを抱えているかもしれない。
毎日、死にたいと思っているかもしれない。助けを求めているかもしれない。
それでも。
こうやって懸命に生きている。辛いそぶりも見せずに。
誰もがそうなのだ。誰もが自分を奮い立たせ毎日を生きているのだ。
か弱い僕たちが力強く精一杯生きようとする姿の、なんて愛おしいことか。
こんな美しくも残酷な世界で、
僕は何ができるだろう。何をしてやれるだろう。
そう考えると不思議と気分が高揚してきた。からだが熱い。
ふと車窓に目をやると、
いつの間にか電車は暗いトンネルを抜け、金色の光の中を走っていた。
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