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note

1,はじめに

”noteは見る専”
そんな使い方を今までずっとしてきたのですが、文章を書くのが好きな私は果たして本当にこのまま ”見る専” で良いんだろうか? そういったモヤモヤを抱きながら過ごしてきたのですが、書きたい欲の方が強かったみたいですね、気が付けばこうやってキーボードをたたいている自分がいます

さて、初めましての方は初めまして。
紺野優(こんのゆう)といいます。一応これはペンネームというか、クリエイター活動をする際に名乗っている名前で、本名ではありません。が、もう殆ど本名みたいなものです(笑)

これからはここnoteで、色々と日々思うことや自身のクリエイター活動のまとめや副業の進捗報告なんかをつらつらと書いていこうかな、と思っています。面白そうだな、と感じて頂ければ是非「スキ」や「フォロー」頂けると大変励みになります^^

そんな私、紺野優ですが、周りからは「何を目指しているの?笑」とよく突っ込まれます。それは何故かというと、色々やりたいことをやりまくっているからです。どういうことか、それは下記で紹介したいと思います。学歴に職歴、それから趣味など、本当に色んな面でツッコミどころ満載と周りから聞いております。けれど中には、いやこれぐらい普通でしょ? とか、いやいや周りにこんなやつ居ねえよ、とか人によって捉え方は様々だと思います。どう感じるかは、そう、あなた次第です(笑)

2,学歴で見る、紺野優

 2-1,小学生時代

3年生のとき、地元・京都の田舎町で見かけた山や川に捨てられた空き缶を見て、そして町中を歩く高齢者さんを見て、小学生の自分に何が出来るだろう? と考えた時に、「僕たち小学生がゴミ収集車みたいに、登校時に町の人たちから家庭で出た空き缶ごみを受け取って、学校に集めて、沢山集まったら業者さんに売ってお金にして、そのお金で車椅子を買って病院や福祉施設に寄付すれば面白いんじゃない?」と思い立ち、その日の「総合の時間」でクラスメートに提案。快諾されました

その後、校長先生にも相談。校内に空き缶ステーションなるものを作り、全校集会で全学年に協力を依頼。そうしていつの間にか私の個人的な思い付きが3年生の取り組みではなく全校の取り組みとなり、空き缶回収プロジェクトがスタート。目標は「卒業までに車椅子10台を購入し寄付すること」

最初は何も分からず右往左往し、業者回収日には缶の中に残ったビールやジュースに苦戦し、服はドロドロ。女子も「なんでうちらがこんなことせなあかんの」ときれてくるし、暑いし臭いし、とにかく大変でした(笑)
けれど、6年生になった頃には作業にもすっかり慣れ、むしろ教室の中でこれ意味あんの? っていう変なワークショップをさせられるより、総合の時間をこうして業者のトラックに空き缶を詰め込む作業として使えたことはクラス全員が満足していたと思うし、私自身も数ヶ月おきにやってくる楽しいイベントのひとつになっていました

しかしながら時は過ぎ、卒業の時。目標の10台はギリギリでしたが達成。担任の先生やクラスメートと大喜びしたのを今でも覚えています。そして、この活動は僕らで終わらせて良いのか? そんな話し合いをみんなでして、これは代々6年生が引き継いでいく取り組みにしないか? と決着。5年生に相談。こちらも快諾してくれました。そうやって卒業後もこのプロジェクトは進められ、何十年続いたんでしょうか。私が社会人になってからも地元キッズたちが受け継ぎ頑張ってくれていました

けれども、我が故郷は少子高齢化でみるみるうちに児童数が減少。また校舎の老朽化もあって新校舎が建つなどしましたが、最終的には小中一貫校になることが決まり、これを機にこのプロジェクトは幕を下ろします。とは言え、本当に20年程続いた大プロジェクトでした

私はこのプロジェクトがあったからこそ、色んなことを学べました。発起人ということで代表もしていました。車椅子を買うのでお金の管理も必要で、発注作業だってある。発注後、車椅子の受け取り。福祉施設や病院へのアポイントメント。他にも「なんでうちらが?」という反対勢力への説得に、プロジェクトメンバーの組織マネジメント。小学生時代にこれらを経験できたことは本当に自分にとってはプラスでしかありません

故郷に戻っても、もうそこには私たちの思い出の校舎はなく、ピカピカの小中一貫校の校舎が建っているだけ。まるで別の町に帰ってきてしまった、そんな気持ちに苛まれてしまうのですが、背後にそびえ立つ山や校舎の裏を流れる川は小学生時代のまま。そう思うと、やはり昔ここに確かに私たちが通っていた、頑張って空き缶を集めていたあの空き缶ステーションがあったんだな、と懐かしい気持ちになるのです

仕事中に缶コーヒーやエナジードリンクを飲み、飲み終えた空き缶を見るたびに脳裏にそんな故郷の風情が浮かぶのです

 2-2,中学生時代

2年生の時、衝撃を受けます。
母校の文化祭は、出し物とかでなく全クラスが必ず「クラス劇」をする、そういった決まり? があり、文化祭=クラス対抗演劇大会みたいなものでした。「うちら今年はこれでやろうと思います」そう言ってクラスメートの女子が引っ張り出してきた演劇脚本の作者が、当時の自分と同じく中学2年生だったのです

「は? 同い年なのに、脚本家? どういうこと?」

もうクラス劇で何をやるかとかそんなことはどうでもよくなって、同い年なのに何故どうして? と自分に激しい劣等感みたいなものを感じた瞬間でした。そんなことを言えば小学生で活躍してる人も居ます。スポーツとかでプロになってる人も居るわけで、勿論中学生ともなれば更に各方面で活躍している人も沢山居るわけで

とは言え、当時の私が何を思ったのか、何故そんなに衝撃を受けたのか、というのは個人的ミステリーですがそこで完全に火が付いた私は同い年の作者さんをライバル視した上で独学で演劇脚本の勉強を始めます。上手(かみて)に下手(しもて)、暗転に明転など、演劇用語に演劇脚本の書き方。徹底的に勉強しました。そうやっていくうちに、「いやもうこれ書いた方が早いわ!」となって、1本脚本を書きあげます。けど、書き上げたままでは意味が無いし、と思っていたら「はりこのトラのあな」という演劇脚本データベースサイトがあることを知り、早速投稿し無料公開

するとまさかの早速レスポンス。今でも覚えています。北海道の高校の演劇部の方からでした。「あなたが書いた演劇脚本を使って舞台をしたいんです」と。嬉しすぎて泣きました。その瞬間、いやその時点から私はある意味劇作家になったのです。別に勝ち負けなどではありませんが、中学生特有の? 負けてたまるかよおおお! っていう変な熱い想いが実を結んだ瞬間でした。そこからコツコツと執筆活動は続いていきます

 2-3,高校生時代

故郷は、林業で栄えた町です。沢山の綺麗な杉林の中を自転車で30分かけて通学する日々。普通科、という選択もありましたが日本全国でも7校(当時)しかないという林業科に当時の私が行かない理由も無く、林業科の特進クラスに進学します。クラスメートは自分含めてたったの10人。数学の時間なんて本当に地獄で、教科書を開きつつ問題集を解いていくのですが、黒板の前に立って方程式を解いて解を求めるくだり、これ1回の授業で1人平均5回はありましたからね……。おかげで数学も半強制的に得意になったようなものです

が、その一方で半分座学で半分は実習、というのが林業科。
更衣室でツナギ服に着替え、ヘルメットをかぶり、手に軍手をはめて外へ行き、日によっては1人1台チェーンソーを持って高校の演習林へ行き木を伐採したり、ある日は伐採した木を使って木工作品やログハウスなんかを建てたり、測量の実習をしたりと、それはそれは楽しい日々でした。
また夏休みにはフォークリフトの免許を学校で取るなど、経験や知識だけでなく資格やスキルも同時に身に付けたものです

同時に演劇脚本の執筆も順調に進み、3年生の頃には3作品目くらいに作品数も増え、極めつけは自分が書いた作品を自分のクラスで演じる。これは本当に自分人生史上最高にHAPPYな出来事でした。もう当時のクラスメートたちには感謝、感謝、感謝でしかありません(笑)
勿論、私自身もキャストとして舞台に上がらさせて頂きました。自分が作ったキャラクターを自分で演じるという、このなんとも言えないフワフワ感と恥ずかしい気持ち。けど、自分の世界観をこうしてクラスメートのみんなや全校生徒のみんなに共有できることの嬉しさは半端じゃなかったです。
そんなこともあって劇は大成功。今も自宅の高校の卒業アルバムを覗けば、上演後に舞台衣装を着たままクラスメートみんなで撮った記念写真が眩しく光っています

また、ぐるんと話は変わりますが私がドハマりすることになるPerfumeとの出会いもこの高校生時代でした。私とPerfumeの出会いはMTVで流れていたBCL(Baby cruising Love)のプロモーションビデオ。なんじゃこのカッコイイ音楽は? なんじゃこの可愛いお姉さま達は? 今でもあのトキメキは忘れられません……

高校の授業をサボり、夜行バスに乗って1人で未知の世界、東京へ繰り出し、マカロニのPVロケ地巡りをし、2008年11月6日・7日に日本武道館で行われたワンマンライブ「BUDOUKaaaaaaaaaaN!!!!!」に参戦。ついでに楽しんでいた東京観光の中、表参道でまさかの芸能プロダクションのスカウトマンからスカウトを受け、その流れで芸能事務所に所属(が、結局はそのまま大学生になりサークル活動等々で芸能活動は断念することになります……)。そんなこともあって、本当に夢のような時間を過ごした東京での2日間。そこからPerfumeへの愛が更に加熱していくことになります(笑)

 2-4,大学生時代

18年間もずっと、京都の山奥、田舎町で過ごしてきた少年からすると神戸の街並みはただただ都会でした。私は高校を卒業後、神戸で一人暮らしを始めます

引っ越しが終わって、家族と外食で夕飯を済ませ「んじゃ、頑張れよ」と車で去っていく家族。あの時の寂しい気持ちというか、悲しい気持ちというか、不安? 孤独? 物凄い重圧が一気に自分に圧し掛かってきたことを昨日のことのように覚えています。けれども、ちょうどそんなタイミングでリリースされたPerfumeのシングル「ワンルームディスコ」

窓をあけても
見慣れない 風景
ちょっとおちつかない けれど
そのうち楽しくなるでしょ

新しい場所で うまくやっていけるかな

このあたりの歌詞、まさにドンピシャ過ぎて、もうずっと聴いてましたね。夜は夜で、

昼間みたい 街の明かりが
星空を みえなくする
たくさんの まぶしい光
とけて消えちゃいそうだ

本当に真っ暗闇が広がる、故郷・京都の田舎町で18年間も過ごしてきただけもあって、明るい都会の夜に驚いたのですが、そこもちゃんと歌詞でカバーされていて、もう神様仏様中田ヤスタカ様Perfume様だよおおおとわーわー言って騒いでたのをよく覚えています(笑)

さてさて、大学の話に戻りますが、そもそもは私、神戸大学農学部志望でした。が、断念。同時に心理学に興味があった私は関西大学文学部心理学科を目指し、当時始まったばかりの新しい受験方法「AO入試」で挑みますが、面接試験であえなく不合格(書類選考は通っていたんですけどね……)。最終的に滑り止めで受けていた私立4年制大学の観光学科に進むことになりました

引っ越しの当日、家族が去った後に感じた重たい気分の大半は「人生詰んだ」でしたね、たぶん(笑) 本当は浪人も考えました。けれどもうちはあんまりお金が無いし、とか言いつつ私立行ってるやんと突っ込まれたら何とも言えないのですが、実は嫌々来たという訳でもなく、観光や環境、街おこしなんかについて学べる学科だったので半分楽しみでもあったのです。とは言え、FランはFラン。ちゃんと就職出来るんだろうか、そんな不安や悩みの方がどちらかと言えば大きかったのです。でもそこでもやっぱり、

たぶん できるはずって 思わなきゃしょうがない

ワンルームディスコの歌詞に助けられる自分が居たのです。
と、そんな1回生の冬、急に転機が訪れます。とある4回生の方から「一緒にサークル活動をやってみない?」とサークル勧誘を受け、フェアトレード推進サークル(後に部になることに)に入ります。国際貿易なんかを研究されている教授のゼミ生が主体となって発足されたサークルで、メンバー構成は4回生5~6人と1回生の私1人だけ。最初はどうなることやら……と思っていましたが、このサークル活動こそが私の人生を大きく突き動かしていくことになります

後にサークルの規模は新歓などでメンバー増員し拡大。2回生で副代表となり、3回生で代表に就任。その頃には最大30~40人が所属する大所帯となっていて、当時流行っていた「もしドラ」やその原点であるドラッカーの「マネジメント」なんかを読み漁りながら組織マネジメントに励み、日本初・アジア発のフェアトレード大学認証なるものを目指して忙しい日々を送りました

また、私たちのような活動をしている学生団体は日本全国の大学にも存在し、やはり個々で活動するより一緒に普及活動を行っていこうよ、という背景から作られたフェアトレード学生団体のネットワーク組織にも加盟。国公立大学から、関西で言う関関同立や、同じような私立大学など、本当に大学と言う垣根を越えた繋がりが増え、狭かった視野が一気に広がっていったのもこの時期だったかと思います

私の人生はここで、本当に大きく変わったのです。途中から自分がFラン大学だってことも忘れていました。もう学歴なんて関係ない。会社だってきっとそう、目指している先、目標や志が同じならそこに学歴なんてものは必要ないし障壁でしかない、と

なので個人的にはあまり就職活動に困ることはありませんでした。きっと高校を卒業したばかりの自分だったら「どうせFランだし」とか、そんな狭い世界と考えの中で生きていたと思います。故に就職活動だってきっと上手くいかなかったんじゃないかなって、思います

私は今も、自分が卒業した大学のことを誇りに思います。どこそこ? と言われることが多いんですが、それでも「自分を大きく成長させてくれたところだよ」と胸を張って言える。それが我が母校なのです。
ちなみにメインの観光や環境、街おこしの授業も大変謳歌させて頂きました。現役JTB社員兼准教授の元、日本各地へ飛び、行政や企業とコラボし、どうやったら観光客を誘致出来るか、どうすれば魅力ある街づくりが出来るかそんなことを話し合い、悩み苦しみ、プレゼンし、新潟の糸魚川市では古民家を使ったカフェ運営なんかも行いました。本当に楽しく、有意義な時間でした

それに高校生の時みたく、取るものは取る! 精神で国内旅程管理主任者資格、準国家資格なのですが所謂バスガイド資格なるものを授業の一環で取得。就職活動の際には本当に話のネタとなり、助かった! という大変有難い資格でもあります

大学生活の最後には、親友と2人で青春18きっぷを使って、まるまる1週間ほどかけて大阪から九州・種子島を目指して旅をしました。これも本当に自分の人生史上最高の思い出です。思い出すだけで心が青い海で満たされる、そんな素敵な旅だったのです

最初は間違った選択だった、なんて思うこともありましたが、決してそんなことは無かった。後悔してる? と聞かれたら「いやいや後悔どころか、本当に最高の学生生活だったよ!」と笑って返せるくらいに、楽しく幸せな学生生活を送ることが出来たのです

3,職歴で見る、紺野優

 3-1,新卒入社:神戸の老舗製菓メーカー

フェアトレード推進部での想いや考え方、今まで起こしてきた行動を大学4年間だけに留めるのは勿体ない、というか自己満足だった、なんて思いたくなくて、「食で世界を変えるんだ!」という想いだけで就職活動に励み、行き着いた先は神戸の老舗製菓メーカーでした

大学卒のぴちぴち新入社員。最初はやはり何処の会社も「現場」から、ということで大丸神戸店の店舗に販売員として配属されます。一応肩書きは営業部第3グループ。最初は上記にも書いたように、「食で世界を変えるんだ!」という想いで動いていました。やる気も十分、むしろあり過ぎるくらいでした。ところがどっこい。働き始めて1週間も経たないうちに、おやおや? と違和感を覚えるようになります

当時配属された店舗にはまず女性しかおらず、社員は1歳年上の真面目な先輩社員と、言い方は大変失礼ですが年配のお局さん。店長ですね。それからそれを取り囲む同年代と思わしきおばさま契約社員にパート。それから時々来る女子大生のアルバイトの子に、マネキンさん。完全なる女性社会でした

そんな中、右も左も分からない私に「そんなことも出来ないの? 信じられない」「遅い! 早くして」「何考えてんの?」と、店長を始め年配のおばさま方にコテンパンに言われ、日に日にやる気と正気、体力が奪われていきました。そして2ヶ月? も経たないうちに、職場に行くだけで吐き気が催してきて、吐かないと職場に立てないような精神状態に追い込まれ、精神科受診。結果、先生の判断は「適応障害」

私は人事に頭を下げ、その後、即座に人事異動。店舗から離れ、本社の商品課へ。まあでも商品課と言っても、ホワイトカラーではなく完全にブルーカラー。所謂生産ラインでのお仕事でした。けれど、製菓学校出身でない素人の私にお菓子が作れる訳もなく、結婚式の寿包装や海外店舗向けの特別ラッピングや船便・空便それぞれに合わせたパレット積みなど、商品の入った段ボールをあれこれする部署。私はそこに突如ポンと放り込まれたのです

そこには老いぼれた定年間際のおばあ様(社員)1人と、数週間おきに入れ替わるパートアルバイトの人たち。暗い照明の中、作業着を着てベルトコンベヤーから流れてくる商品を段ボールに箱詰めしていく単純なる流れ作業。朝から晩までひたすら箱詰めでした

また夏や冬には、それぞれ催事もの(シーズンもの)の破棄商品が届けられ、段ボールに燃えるゴミ、お菓子やゼリーをゴミ袋に入れて処分する作業を担当しました。もう正直頭が狂いそうでした。というか狂ってました。「食で世界を変えるんだ!」って言ってた人が淡々とお菓子やゼリーをゴミ袋に入れて処分してるんです。やってることと言ってることが違い過ぎる訳です

と、そんな職場も8ヶ月程? 耐えて頑張り抜いたところで「もう一度チャンスをやろう」と会社からお言葉を頂き、まさかの本店への異動が決まります。11月とかでしたかね? そんなこんなで再び店舗販売員として本店に立つことになった訳ですが、12月はクリスマス繁忙ということで店は大忙し。クリスマス当日まで休みなしの何連勤? まあ本当に今の会社では考えられない連勤をこなして店舗に立ちました。そして思った訳です、「辞めよう、無理だ」と

 3-2,転職1回目:市役所職員

ちょうどその時、お付き合いしていた彼女とは既に付き合って5年? ということもあって、結婚も視野に入れていました。本当に今となっては自分の行動に驚きを隠せませんが、男ですが、寿退社をしたのです。別に寿退社=女性社員がするもの、というものではないですが、それこそ会社を辞める為に結婚した訳でもありませんが、当時の私はそういう決断を下します

そして妻の故郷である和歌山へと引っ越し、妻の実家に転がり込み居候生活を送ることになります。その際、「地方の仕事で安定職と言えば公務員」というような浅はかな考えは一切無かった、とまでは言い切れませんが、単純に利益追求(店舗では毎日達成予算=ノルマがあり、お金お金お金だったのです)に疲れ、お金の為でなく人の為に動く仕事がしたい、そう思っていた時期でもあったのです

けれども、疲れていたのはお金だけではなく、自分自身の心そのものでした。1社目で完全に疲弊しきった私は自分のことをすっかり「社会不適合者」だと感じていました。学生時代の自信は何処に行ったんだ? 此処まで読んでくださった方はそう思うかもしれませんが、やる気元気体力でパンパンに膨らんでいた風船が、もう微塵も空気が入ってないんじゃないか? ってくらいにヨレヨレにしぼんでしまっている、例えるなら本当にそんな精神状態でした

ところが配属された建設課という部署では、今度は土建屋の世界ってことで逆に完全なる男社会。強面のお兄ちゃんか、ガタイの良いおじさん、日焼けで真っ黒なおじいさんなどなど、本当に天と地がひっくり返るとはこのことか? というくらいに前職の職場とのギャップが凄すぎてたじろいだことをよーく覚えております。それに高校を卒業したてのイケメンが1人居て、まさかの自分とペア。もう何が何だか状態でした(笑)

私が配属された係は道路維持係と言って、道路に穴が空いていないか、カーブミラーが曲がってないか、グレーチングが壊れてないか、側溝が詰まっていないか等々市内各所に存在する市道の維持や保守作業がメインで、もっぱら日中は市民からの通報やクレームを元に現場へ急行し、手作業で穴埋めやカーブミラー修正を行っていました

パトロールにも出掛けました。いつも使うのはお決まりのおんぼろ軽トラック。2人で乗り込んで、途中の自販機で相方はジュース、私はコーヒーを買って(それもいつも私のおごりで)、そうやってジュースやコーヒーを飲みながら軽トラックで田舎道や林の中、太平洋が一望できる道などを1日中走り回りました。晴れの日は良いですが、雨の日、特に台風の日なんかは最悪で、カッパを着込んで冠水ポイントへ向かい側溝の土砂撤去やがけ崩れの現場写真撮影に三角ポールや看板を設置するなど、結構危険とも隣合せの作業も担当したりしていました

書類作業、所謂デスクワークもありました。建築許可申請書や広告許可書、境界確定に市道認定などの書類の決裁、図面作成など、まるで高校の時のように半分座学で半分実習といった具合でした。けれどそういった書類も大半は土地家屋調査士の方や和歌山県の方たちと一緒に現場立ち合いが行われたりするので現場にも行くし、警察や税務署、それに工事をお願いする工務店など他にも行く先は沢山あり、殆ど外に出たっきりでした

だからか、本当に1日のスピードが本当に早くって、あっという間に1年、2年と時が過ぎていきました。と、同時にどんどん浄化されていくような感覚がありました。仕事って楽しい、いつしかそう思えるようになってきたのです。自分は社会不適合者だって思い込んでたけどそうじゃないのかもしれない、と

 3-3,転職2回目:新聞記者兼カメラマン

ところが、問題がゼロになった訳ではありませんでした。仕事は楽しく、有意義ではあっても、あまりに給料が安過ぎたのです。リアルに手取り11万円くらいでしたからね……。子どもやマイホームのことなんかを考えるととてもじゃないけれど、この給料ではやっていけないよね。妻とそんな相談をして、せめて手取り20万円くらいの仕事に就くべきだよねって

と、そうこう悩んでいた時、たまたまお隣・三重県で「新聞記者募集」という求人を見つけ、私はすがる思いで応募します。まあ他にも旅行関連のベンチャー企業なんかの選考も受けてたりしていたのですが、脚本や小説を書いていたり、一眼レフで写真を撮るという趣味も高じて、あっさり内定を勝ち取り、神戸の製菓メーカー以来、約3年ぶり? に会社員(且つ、正社員)として社会復帰を果たします

此処も最初は良い会社だな、とそんなことを思ったのも束の間、働くにつれてとんでもないブラック企業であることに気が付きます。休みは週1日だけ。しかもその貴重な週1日の休日に取材の仕事が入ることも当たり前。また入社早々任されたのが事件事故担当だったのですが、夜中にもバンバン警察や消防からの報道連絡網(電話)が架かってくるし、平日も1人で取材に行って現場写真も自分で抑えて、ご飯も食べる間もなく原稿を書いて送って「なんじゃこの写真は!」「他に違うアングルあったやろ!」とか「なんで肝心な情報抜けてんねん、お前現場に何しに行ってん」等々、デスクに死ぬほど罵声を浴びせられる毎日。ああ、また始まったのだなと

また小さな町で、そんな毎日毎日事件事故が起きる訳もなく、何なら変わりダネだってぽんぽこ出てくる訳もなく、だから本当に毎週行われる編集会議が嫌で嫌で仕方ありませんでした。本当に無いものは無い、だから「色々、公民館とか小学校とか施設とか回ってみましたが、特段変わったイベントは無いようです」と報告するしかないのですが、「お前記者やろ?」「そんな言い訳が通用するか! 今度手ぶらで会議出席したら許さんからな」といった具合で、此処でもコテンパンにやられるのです。もう何ならこの会社の実情を記事にしたいくらいでした

 3-4,転職3回目:神戸の外資系企業

当然ながら、早い段階で私は動き出します。こんなところで働いてられっかと。またデスクだけでなく、此処では多くの人と衝突しました。人事の人間とも衝突し、「お前は社会不適合者だ!」とまで言われたくらいです。まあそんなこと言われなくても自分自身が一番よく分かってるよと開き直っていたというか、完全に麻痺っていた私はあまりもうそんな人たちの言葉にいちいち傷つくことも少なくなっていました。ただただ惰性で日々の取材をこなし、貴重な休日は全て転職活動に捧げたのです

そうして神様はそんな私のことをちゃんと見てくれていたのか、まさか自分が? というレベルの、何なら大学生時代に第1志望だった大手食品メーカー(外資系企業)から内定を頂くことができ、内定通知書を人事やデスクに叩き付ける格好で新聞社を退職。久々に、約4年ぶり? に神戸に戻ってきました。当時は、そりゃもうウキウキでしたね、本当に(笑)

ところが此処でも問題が。入社当時、入った部署は言わば生まれたてほやほやのセクションで、自分だけでなく周りの人全員が右往左往しているような状態でした。ちなみに最初に配属されたのは、通販サイトの受付窓口業務。すなわち受注窓口。コールセンタースタッフ、オペレーターとしてのスタートです。まあ外資系企業ということもあって、ありとあらゆる数字にKPI(目標値)が事細かに設定されていて、各個人の成績はトラッキングされ、毎週チームミーティングで達成状況として公開処刑されるというシステムになっていました

おまけに当時の部長がかなり厳しい人で、「なんでこんなことも出来ないの?」というような圧が凄く、ああ結局私はどこの会社に行っても仕事の出来ないクズなんだなと、やっぱり社会不適合者なんだなと痛感していました

極めつけが、実は入社して6ヶ月間(半年)は試用期間で、同期は成績優秀で問題なく正社員登用が決定していく中、自分1人だけが成績不良で試用期間延長に延長と、伸びるに伸び、結果なんとか正社員登用して頂くことは出来ましたが、正直危なかったと思います……。当時は本当にそれが鬱で仕方がなくて、妻にそんな状況を報告することも出来ず、帰りの電車や帰りのバスの中で隠れて泣いていました。「また転職か」と肩を落として泣きました

が、何とか踏ん張りしがみつき耐え抜いて、1年程経った頃には、いつしか通販業務の中でもオペレーターではなくバックヤードという言わばサポート側の仕事もさせて貰えるようになり、気が付けば何人もの同期や後輩ができ、職場は賑やかになり、活気づいていました。良い流れ、良い波に乗り始めたのはこの頃からだったと思います

その流れでお客様相談室のオペレーターを経験したのちに、コールセンターの機関組織であるレポートチームへ異動。マクロを用いたレポーティング作業の自動化業務をメイン業務とし、後に2021年8月現在の今の仕事であるコールセンターマネジメント職に異動。現在は職場内にRPAを導入したり、新しいソリューションを導入して、コールセンターのより良い運営を行うサポートスタッフとして日々の業務に取り組んでいます

4,(次回予告)B面で見る、紺野優

210904 神社巡り@京北-81

いかがでしたか? 思った以上に書いてしまい、気が付けば1万字を超えてしまいました。いやーごめんなさい、たらたらと書き過ぎました。でも何だかスッキリもしました。ありがとうございます(笑) 一応これが私のざっと簡単な学歴・職歴エピソードとなります

実は今年の春に新入社員向け研修があり、私の経歴をお伝えする機会があったのですが、クレイジーと笑われてしまいました。まあ30代でこんなスパンで色々刻み過ぎですよね

とは言え、今まで書いてきたのは言わば、表面上というか履歴書とかエントリーシートとかに書ける硬い部分、真面目な部分、まあA面という私の顔を紹介してきました。そこで最後にB面、私のお茶目な部分? 違うな、内面というべきでしょうか、そんなところを軽く紹介したいと思うのですが、書きたいこと伝えたいこと山のようにあるのでB面の部分については、それこそこのnoteを使って、各ジャンルに分類して、内容を厳選して、今後ゆっくり時間をかけて紹介していきたいなと思います!

なので大変長くなってしまいましたが、私・紺野優はこんな感じの人でございます(笑) もし気に入って頂けましたら、「いやー次回こいつ何を語るんだ?」と気になる方がいらっしゃいましたら、是非ぜひ「スキ」や「フォロー」で応援して頂けると大変嬉しいですっ!引き続き何卒宜しくお願い致します~^^

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