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すっかり冬。というか春の方がちかいのか。

早いような、すごく長かったような。

春から中学校にほぼ行かなくなった娘と一緒に暮らしていると、心の中はのたうち回るような感情と、わたしの今までのガチガチな価値観をベリベリと剥がしてもらっていることに感謝するような感情とが混ざり合って…

うん。キレイには言えないなぁ。
結局、けっこうくるしかった。

そして半年以上経つのに相変わらず、混乱具合は治まりきらないんだよなぁ。

前に、娘について思うことをnoteに書いてからその後について何度も書きたくなるタイミングはあったのだけれど。
何せ、何にも終わったわけでなく形が見えるわけでもないので。
わたしの何となくの感覚だけでことばにするのはむずかしくて、少し書いただけの下書きが残るばかりだった。

娘ともたくさん話し合ったし、一方的にわたしがどなりつけるような時もあった。

娘の事なのに、
「今までのあんたがやってきた、頑張ってきた事をどんどん溢していってる事がわたしは悔しい」
とか、そんな言葉も泣きながら娘にぶつけた。
たぶん、これは変なんだけど。
わたしが悔しがることではないんよね。

娘は家の中で荒れたりはしない。

以前と変わらずに猫たちに優しいし、余裕がありそうな時は家族にも優しい。
台所に寄ってきたら一緒に料理をするし、これまた相変わらず焼き具合だとかの塩梅が、彼女はとてもうまいなぁ と、毎回思う。

先日、良く切れる包丁を仕事場の方が譲ってくださった。
このメーカーは評判がいいからと購入してみたけれどその方の手の大きさに合わなくてしっくりこなかったそう。
その方は背も高くて手がとても大きい。

余談だけれど、手の中にパワーがあるというか、わたしはその方の大きな手が魅力的だなぁと前から思ってた。

「昔からね、男の人よりも大きいんじゃない?ってよく言われてたの。」

と、笑う顔がなんともかわいらしくて心がほわっとする。
お孫さんが3人いらっしゃるパワフルでチャーミングな方。

「娘ちゃん、料理すきなんだったら使ってくれないかな?」
と不意に譲ってくださったその包丁をすっかり娘は氣に入って使っている。
トマトもスパッと切れて、使っていると料理上手になった氣分になる。


春からこれまでの間、重ねてきた学校との話し合いの結果として娘の学習環境は変化してきた。

今の環境。
娘は家でzoomで授業を受けていても出席扱いになる。
(夏ごろから、zoomで授業に参加するという事を取り入れてもらえた。)
体育や、学級活動の時間以外は基本zoomが繋がっている状態になっている。
学校に行かない日も、zoom授業は欠かさず1限目から受けている様子。
(毎朝、6時半には起きてる。)

フリースクールに行った日も出席扱いになる。

当初はフリースクールに行った日は出席扱いで、家でzoomを受けた日は遅刻扱いになっていた。
(もっと最初の方、利用するようになって2ヶ月経つまでは、フリースクールに通った日の記録は普通に欠席になっていた。
後々、先生から1学期の出欠の記録はもう1度見直され、修正をしてもらえた。)

"遅刻"には少しだけカラクリがあって。
学校を休んだ日も、毎回放課後に20分弱ほど学校に行くようにしていた。
授業で配られたプリントを受け取ったり、先生たちから授業の内容の話を聞いたり雑談をしていた様子だった。

学校から離れすぎていると、本人が"行きたい"と感じるようになった時にハードルが高くなってしまうんじゃないか。
それは先生側もわたしと夫も思うことだった。

"先生たちはいつでも待ってるよ" と、そんな空氣を娘に伝える時間にもなるようにと、複数の先生たちが状況認識を共有しながら対応してくれた。

娘が登録しているフリースクールは午後からしか開いていない。

くるしいので学校には行かない、と娘が決めた時に、フリースクールで過ごすのも、家にいてzoomで授業を受けることも自分で選べばいいとその選択はだいたい本人に任せるようにしていた。

けれど、すぐに疑問や迷いが出てきた。

4時間ほどフリースクールで過ごして出席となることと、zoom参加で1限から6限まで机の前で授業を受けていても出席とはならず、放課後20分程の登校で遅刻と記録が残ること。

これは、どちらがいいのだろう。

目の前のことだけを考えれば、娘が自分が思うように決めればいい、と思うことができる。

ただ、学校がくるしいと感じる娘は同時に、勉強がすきだという。

先生たちが嫌なわけじゃない、学ぶことはすきだ。体育もしたい。美術だって技術家庭科だって興味があるし何かを作るのはワクワクする。

わたしも娘のそれは知ってる。
新しいものが自分に入ってくる時、娘の目はきらっと光るし、好奇心が湧く時もそれが満たされた時も、嬉しそうな表情が内側から滲み出てくるようにおもてに表れてくるのを当たり前のように今まで見てきた。

成長著しい娘の今は、もしかしたらもう、わたしのイメージの娘とは別人なくらいにちがっているのかもしれない。
外から見えている娘がどんな形をしているのか、わたしは本当のところなんてわかっていない。

でも、最初から別人だとは思えない。
わたしの執着かもしれないけれどね。

学校との話し合いの時に、このズレの事も聞いてみた。

後々のことはわたしからでは全く分からないので教えていただきたいです。
これはどちらが本人のその後にとって良いのでしょうか? と。

担任の先生も、
「そこの部分は私も矛盾があるなと実は以前から思っていました。」
と言われ、そのあと校長先生の判断で、娘の場合は家でのzoomも出席扱いにすると決まった。

校長先生が小学校とも連絡をとった結果、娘の今までの生活態度や学習態度を考慮しての判断だったと聞いた。



娘の中の想いについても書きたいことがたくさんあるのですが、、長くなるのでまた次に書きたいなと思います。

ひとつ、わたしがとてもつよく感じているのは、
学校に行かないという選択や、くるしいと感じる子どもが、学校にその本当の心のうちを理解してもらうのはとても難しいということです。

娘はたまたま、言葉をしぼりだせました。

その言葉が、直接、学校側に理解をしてもらえる形だったり、わたしが肉付けをして通訳をすればなんとか先生たちに通じる言葉にできたりして、そんなことをしながら、いろんな変化があったり、周りに理解をしてもらったり、理解をしたいと努めてもらえたり、支えてもらうことができました。

娘と同時に、わたしを支えてもらう経験もしてきました。

だけど、想いは確かにあるのに、言葉をだせなかったとしたら、どうなっていたんだろう。
こわいです。考えたくないくらいに。
子どもも親も、きっととてもくるしいです。

やっと少し書けました。
また、書こうと思います。


*raswさんのお写真をお借りしました。
ありがとうございます😊
かわいくて丈夫なビオラ、すきなお花です^^

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