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芽吹く 

なにも、入学や卒業ばかりが区切りじゃないんだなぁと今更ながらに感じている。

いつ始めるかも、区切りも、
自分の中で決めたっていいのか…。

そんな感覚をわたしはいままで持っていなかったな。

新年度が始まった。
娘は中学2年になった。
今日まで毎日、明るい顔で登校している。

目に力がある 
それでこんなに印象が変わるんだな。

娘は感情と表情がわかりやすく直結しているところがあるから、余計にそうなのかもしれない。


前年度の3学期、2月になった頃から、登校時間から部活の時間まで学校で過ごす日が増えていた。

朝、何となく疲れた様子で起きてきた時は、

・登校を勧めてみる
・今日は家でゆっくりしたら?と声をかける

の、どちらにするかを夫とチラッと意見を合わせて。
こちらからはもううるさくは言わない様にした。

「今日はzoomにする…」と娘が決めて家で過ごした日も、放課後には決まって部活の為に学校には行っていた。

朝は氣力が低めに感じても、娘は出勤するわたしたちに、小さくても必ず声を掛けてくれたし、帰宅した時には「おかえり」と言ってリビングや玄関に出てきて迎えてくれた。

わたしが出勤する時には軽く手を握り、帰宅した時にはふんわりとハグをしてきてくれる事もよくあった。

娘の体はどこも、あたたかく柔らかで。
それはわたしを少し安心させてくれた。

去年の春に感じていた、娘の全身のこわばりがとけてきたのを確信させてくれた。


放課後に娘を部活に送ることは難しくなかった。

ただ、度々、息子のサッカー練習の送迎の時間と娘を部活に送る時間が被ることがあった。

そんな時には息子を乗せたまま、先に中学校へ行き、部活に向かう娘を見送った。

姉の姿を見ながら、ある日息子が言っていた。


「なんかさ、姉ちゃんって強いんか弱いんかほんとわからんところあるよな。
俺だったら、もし嫌がらせとか理不尽なことされたら絶対言い返すしハッキリさせるけど、姉ちゃんはそういうのが苦手やろ。結構黙ってしまうし。

でも、学校を休んでるのに普通の感じで部活だけ行くとか、それは俺だったら絶対できんと思う。
周りの友だちの目もあるし。

なんであんなに堂々として友だちと普通に笑ったりして部活だけ行けるんだろう。
ああいう強さは俺には無いなって思う。」

そうだよなぁ…。
お母さんもその部分、きっと持って無いわ。

よわいのか。
よわいしつよいのか。



娘も周りの目を感じている時期はあった様に思う。

「泣き顔で保健室に居るなんて何の意味があるの。
それなら家に居たい。」

そんな言葉も聞いたことがあった。


乗り越えたのか、ただ過ぎ去ったのか、それは分からないけれど。

きっとあの時とは違う地点に居るんだろうなと感じながら、友だちと談笑しながら校舎に入っていく娘の姿を見ていた。

昨年度、中学に入学した娘の1年間は本当に色々とあった。

今までの揺れの少ないどちらかといえばあたたかで安定した小学校生活とは一転して、
苦みや不信感にすっぽりと覆われるような出来事が次々に湧いて出てくるものだから…

その時期のわたしは溺れかけていたと思う。

自身の強制ストップがかかった娘の側で。

でも、そんな風だったからこそ、無我夢中で周りを氣にするなんて余裕も無いままに、自分が感じるままに動くことを続けた。

普通は… とか、
常識的には…とか、
みんなが…とか、
そんなの構っていられ無かったし。

相手の立場もあるから…
の、普段なら超えるはずないラインも。
そこを通らないと1番伝えたい事が伝わらないと感じた時には踏み入った。

当たり前だけど、相手に踏み入るなら、同時に、自分にだって踏み入られるだろう。
自分を隠したままで相手を見ようとしたって見えるわけない。
それを怖いと思うことも、もう無かった。

夫は、わたしにもう少し賢いやり方をして欲しいと思っていただろう。

いつでも、動きだすと真正面からしか向かっていけない様を見て、幼いと感じていただろう。

感じる違和感を全部全部、表に出していくわたしのやり方は、全くスマートじゃない。

夫とも、話して話して、、
何が大事なのか。

"学校が…" というよりも、私たち夫婦が "家族" を考えるときに本当に求めているものって何なのかを、キレイもキタナイも無く、想いを出し合った。

夫はどんなときでも理性的で冷静だ。
社会に対して、ましてや子どもがお世話になっている学校に対しては穏やかな関係でいたいタイプだ。

今回、わたしはそれをことごとく壊したと思う。

でも、最終的に夫はわたしの言動を理解してくれて、一緒に進んでくれた。


思いつくままに動いた。
今まで生きてきた中で稀なくらいに、心と行動が一致していた。

フリースクールに足を運んだ。
その時のわたしが求めていた人たちに出会えた。

わたしの中の、不登校についての考え方の指針を少しでも作りたいと、講演会に行き話を聞いた。中でも、たまたま講演に来られていた加嶋文哉さんの講演が、わたしはものすごく参考になった。
その後の学校との話合いをする際、大きな支えになってくれた。

不登校に関連した本を改めて買って読むことをしたり。

5年前に1度会っただけの方に連絡を取って、会いに行き、話を聞いてもらったりもした。

夫からしてみたら謎な行動だったようだけど。
その時はなぜか強くそうしたかったから。

5年前、"大空小学校の木村(元)校長先生" の講演会でたまたま隣に座った方。
快活で聡明な雰囲気を感じさせる息子さんと一緒にこられていた。
その息子さんは学校に通わない事を選択していると言われていた。

今回お会いしたとき、その方は友人たちと共に、学校に通わない子どもの保護者が集う場所を立ち上げられていた。
驚きと同時に、"この方はその様に動かれるだろうなぁ。"と、とても腑に落ちる感覚があった。

5年前に感じたのと同じ、あたたかくて強い眼差しで彼女はわたしの話を丁寧に聴いてくれた。
彼女の話も聴かせてもらい、美味しいコーヒーを飲み、お互いにお土産を渡し合って。(わたしからは甘いもの。彼女は工芸品の作り手さんなので縁起のいい作品をくれた。)

わたしは大きな安堵感を抱えて家に帰った。

大丈夫、大丈夫。。
と、頭の中の声が、少しづつ自信を取り戻しながら太くなっていくのを感じた。

家で過ごす娘との関わり方を変えようとしてもなかなか自分を変えられないなら、"わたしが外に出よう"と、新しい仕事先を探して、見つけた。

ここにしよう。
求人を見てすぐにそう思った仕事は、ハローワークに紹介を依頼しに行くと
「時給も低めで、紹介した方がなかなか続きにくいのですが…」
とお薦めされない職場だったけれど。
(お薦めされないとかあるんだと驚いた。)

面接に行くと、
「miyaちゃんを待ってたよ!」
と言われ(もちろん初対面)、とんとん拍子で働く事が決まった。

"安心して食べられるおいしいお弁当を提供する"

この目的を軸として回っている職場は、誠実であたたかかった。(みんなユニークでチャーミングだし。)
ストイックさに緊張する事はいまだに多々あるけれど、安全や安心、信頼を守ることはこの積み重ねなんだと日々思い知る。
ここで働ける事が単純に嬉しい。

働き出した頃、ほとんど毎日家で過ごしていた娘が言った。

「お母さんの職場、なんかよさそうだよね。
私も働くのはそんな職場がいいなぁ。」

うん。たのしいよー。
と、すんなり口からでてきた。

なんだか不思議だった。
いつも、余剰分のおかずをみんなで分けて買い取って持ち帰るのとは別に、

「はい。これは娘ちゃんに。」

と、手づくりのおやつを何人もの人が頻繁にくれた。
試作品、という名目のことも多かった。

特に娘の様子を話すことはしていなかったけれど、みんな、
"息子くんに…"とは言わない。

決まって、

"娘ちゃんに持って帰ってあげて。"

と言って持たせてくれた。
(一般的に女の子の方があまいものすきだからかな。)

蒸しパン、小さなおはぎ、ガトーショコラ、米粉のクッキーやパン、チーズケーキ、寒天ゼリー、つきたてのお餅…
あ。ぜんざいをタッパーに入れてくれたこともあった。

それらはどれも娘が好きなものばかりで、娘はおいしいと言って食べていたし、何よりわたしの心が、"ありがとうございます"で満たされた。


ふと思った。
わたしを突き動かした、スクールカウンセラーの方の言葉。

「娘さんは、今まで自分で考えて決めてこなかった。そうですよね?」

これが突き刺さったのは、わたし自身のことを言われた様に感じたからかもしれない。

そんな事ない!

お腹の底からたぎるように湧いてきた拒否感は、娘を思ってのことだったのか、もしかしたらちいさな自分を護りたかったんじゃないか。


わたしの中学生時代は、兄の症状が酷かった時期と重なっていた。
息をころすように、それでいてピエロのようにしてなんとか家の中を保ちたいともがいていた時期だ。
自分が何をやりたいかなんてどうでもよかったし、進学先の高校をどこにするのかは当時母が入会していた宗教の、だれだか知らない人からのアドバイスで決まった。

先を考えられるだけの安心感はなかった。
ただ家族の形を維持したかった。
自分の感覚を大事にしたり、意見を持つことよりも、それよりも、もっと大事にしたいものがあった。

学校を心底楽しいと思う余裕なんてなかった。
ただ、1日1日、いい子にしていれば明日に繋げられると思っていた。
誰の邪魔もせずに、周りがのぞむようにして。
もし、軌道から外れてしまった時にわたしを支えるのはわたししかいないと感じていたから。
その余力は自分に無いと分かっていたから。

だからみんなと同じように進んでいたんだよ。

学校に通えているからって、つらくないわけでも、問題がないわけでもないんだよ。

そして。
自分で考えて無いように見えても、決めて無いように周りからは見えても。

"思いや願い" が、ないわけでは無いんだよ。

見ている人が、見えていないだけかもしれないんだよ。


だから。
学校に通えなくなったからといって、それをきっかけに問題探しをするのは違うんじゃないかな。

不登校は 問題行動ではない

これを文科省が指針として出している。
当事者になって、とても納得する言葉だと感じるようになった。

でも、現場で仕事に追われている先生たちはもうそこまでついて行けていないと思う。

"ひとりひとりに向き合う"

とか、とてもじゃないよ。
どんなに有能な先生でも無理なんだと思う。

ただ、できれば、信じてほしい。
まだまだ未熟で、歪で、信じてもらえるほどの輝きは見えないかもしれないけれど。

"信じる"をしてもらえた時に、何かが変化していくかもしれないから。

加嶋文哉さんが講演会で言われていた言葉がずっと頭に残ってる。

「子どもの居場所、というのは場所のことではないんです。周りの人たちの眼差しが、居場所になるんです。」

もしも、問題探しをするのならば、相手を理解するために、信じるためにしてほしい。

重箱の隅をつつくみたいに、弱点を暴くみたいに、"自己責任"というレッテルづくりの為にしないでほしい。

この1年で、わたしはそう思うようになった。



2学期の終わりの頃、担任の先生と学年主任の先生との何度目かの話し合いで、

「学校でのなつきさんの様子を見ていて、なつきさんは本当に誠実な子だとよくわかりました。」

と言葉をもらった。
その時の先生たちの言葉は、まっすぐに届いて、わたしはまた涙がでた。

私が娘のことを、この子はどんな子なんだろうと考えた時に、最後に残ったのは"誠実さ"だった。

他のことはまだよく分からないけれど、たぶん、この部分は彼女が手放さないんじゃないかなと思う部分。

最初は困惑したような、正直面倒そうだった先生たちから、真剣なまなざしでこの言葉をもらえた時に、
"もう大丈夫。"
と、そう思えた。

ここからは、彼女がこの場所でやっていくのをただ見守ろうと思えた。
どう過ごしていくのかなにを選択するのか、彼女次第だ。
わたしは引こう。

3学期になって、娘がわたしと夫にくれた手紙の最後の方にこう書いてあった。

「今、先生たちには感謝しかないです。」


あと2年間、きっとあっという間だ。
たくさん感じて、自分を知ることを続けてほしい。

その間、わたしは美味しいごはんを作れるように邁進したいと思う。


狭い狭い、長い長い話を書きました。
いつものごとくただただ自分から見えた事を書き連ねました。
読んでくださりありがとうございました。

*ibaraki_nakai さんのお写真をお借りしました。
ありがとうございます🌸

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