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太宰治「待つ」について —能動的に“待つ”—

 今回は、太宰治の短編小説「待つ」について書く。
 この小説の語り手は、若い女性である。この語り手には、ある独特の性質が具わっている。それについて説明するために、まず、内容について紹介したい。
 作品の冒頭は、こんな書き出しである。

  省線のその小さい駅に、私は毎日、人をお迎えにまいります。誰とも、わからぬ人を迎えに。(太宰治『太宰治全集5』ちくま文庫、p,41)

 この語り手は、誰かを待っているのだが、一体誰を待っているのか彼女自身にも分からないと言う。その上、「私の待っているものは、人間でないかも知れない」(同書、p,42)とあるため、語り手が待っているのは、人間ではないということさえ考えられる。そう、この物語は、タイトルからも分かるように、何かを“待つ”女性の話なのだ。何か分からないものを“待つ”という語り手の姿からは、彼女の受け身の姿勢が窺える。
 さて、この作品を読み解く上で重要なのは、末尾において登場する「あなた」の存在である。

  私を忘れないで下さいませ。毎日、毎日、駅へお迎えに行っては、むなしく家へ帰って来る二十の娘を笑わずに、どうか覚えて置いて下さいませ。その小さい駅の名は、わざとお教え申しません。お教えせずとも、あなたは、いつか私を見掛ける。(同書、p,44)

 この「あなた」は、一見、語り手の待っている相手とは異なっているかのように思える。しかし、よく考えると、実は「あなた」は、待っている相手の中に、可能性としては含まれるのである。したがって、この話全体を、「私は待っているため、あなたは私のことを見つけて下さいね」というような誘い文句であると取ることもができる。そのことは、既に細谷博が指摘している。彼は、「『待つ』は「求む、あなた」と題してもよいでしょう。」(細谷博『太宰 治』岩波新書、p,88)と言っていて、「待つ」という小説には語り手の「あなた」への誘いという面があることに触れている。また、「あなたは、いつか私を見掛ける。」(太宰治『太宰治全集5』ちくま文庫、p,44)という結びは、細谷博が「なにやら暗示や予言のように、あるいはまた呪文のように聞こえるつよい結びとなって(いる)」(細谷博『太宰 治』岩波新書、p,88)と指摘するように、どこか得体の知れないような響きを伴っている。この語り手の口調そのものにも、彼女の、いたずらめいた「誘い」の要素を見ることができる。この「誘う」という行為は、非常に能動的な姿勢の反映であると言える。
 このように、語り手は、“待つ”という受動的な行為を、「あなた」を“誘う”という能動的な行為に転換させている。そこに、この語り手の独特な性質があるのではないだろうか。何を待っているのか分からないけれど待っている、という状況は、通常は、受動的な行為になる。しかし、それを能動的な行為に転換させているところが、この語り手の特異な点であろう。
 以上より、この小説の語り手には、“待つ”ことを、受動的ではなく能動的な行為として行うという、独特な性質があると言える。

 


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