辻征夫「風の名前」を読む

窓の外に
風がいる

窓辺に行くと
風のやつ
頬にふれる

(お部屋の中を
通っていい?)
(いいよ)

風が吹いて行く
手をさしのべているのは
風の肉体にさわっているんだ

微風のマリー
隙間風のジェーン
ミセス秋風

(マタサブロウは
どうしている?)
(知らないわ)

吹きさらしの
暮らしである

 この作品は、それ自体が「詩」というもののパロディーとなっている。それがどういうことなのか、以下に説明したい。
 この詩の中で、語り手は、風と戯れ、会話を交わしている。風に手をさしのべることを「風の肉体にさわっている」と表現したり、風をお洒落な名前で呼んだりするところなどは、いかにも“詩的”である。また、『風の又三郎』を引き合いに出して、「マタサブロウはどうしている?」と風に尋ねるが、「知らないわ」とあっさり躱されてしまうところなどは、まるで恋人同士の会話のようで、キザである。
 しかし、この、風の「知らないわ」という答えが、話のオチかと思いきや、実はそうではない。末尾は、「吹きさらしの 暮らしである」と結ばれていて、これが抱腹絶倒のオチとなっている。
 つまり、語り手の家が貧しく、家の造りが頑丈ではないため、風が入ってきてしまう状態であると言うのだ。なお、「暮らし」という言葉のニュアンスをより深く考えると、これは “世間の風”という抽象的な風が家計に強く吹いている、という意味であるとも考えたくなる。しかし、ここはやはり、物理的に、家には風が吹き込んでくる、と考えた方が適切であろう。「隙間風」という言葉も、この「吹きさらし」の伏線として登場していることであるから、これは本物の「風」であろう。
 いずれにせよ、風に名前を付けるという優雅な行為を楽しんでいるような語り手の家が、実は吹きさらしの状態であるというのは、いかにも笑える。だが、このオチをよく観察すると、そこには、ただの諧謔ではなくて、パロディーとしての面白さも含まれていることが分かる。
 既に述べたように、風に名前を付ける、というのは、世間一般では、いかにも“詩的”な行為と見なされる。そして、作者は、このような行為について、それは実は、家が吹きさらしだからなされているのだ、と話を結んでいる。作者は、このオチを通して、世間に流布する「詩」のイメージをおちょくっていると言えるだろう。私が「パロディーである」と述べたのは、そうした意味においてである。

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