井坂洋子「まぶたの喪」を読む

  まぶたの喪 井坂洋子

 川に浸した巨人の足が
 川上へ のぼっていった
 と伝わっている川のほとり
 男の子は むかしのように
 石を投げる

 大きな蛇が川を泳いでいった
 だけなのかもしれないな

 蛇が こどもの
 瞳のなかの
 縮小された岩をよじのぼる
 人間の血液の成分は
 自然の鉱物とほぼ同じ成分の比率で成り立っている
 とこどもが言う
 人間と岩とはシンセキなんだ
 人間と蛇とは?
 それもシンセキ
 理由はないけどね

 はだかの声が
 ひとの後ろ姿になり
 行き交う街で
 わたしたちは岩になる途中だ
 くるしい内蔵だらけの岩
 老いたこどもたちの
 まぶたの双つ丘に建つ古い家を
 軋ませる
 すきま
 ほどの用事をもつ

 むかし 理科室の人体模型の
 血管を指でなぞった
 赤い蛇と青い蛇の
 悪心も透ける薄いまぶたの
 喪が晴れ

 軽いこころだけになって
 逝く
 みんなと別れて


 この詩のテーマは、「子供は両親の性愛の罪を背負って生まれてくる。生という責苦に苛まれる子供は、自分が死を迎えた時、やっと両親の罪から解放される」というものである。
 作中では、上に示したような、人間の営み(誕生、性愛、死)が、「まぶた」にまつわるイメージに喩えられている。この、人間の営みと、「まぶた」のイメージを仲立ちするのが、蛇や岩を用いた比喩である。
 どういうことなのか、具体的に説明しよう。
 まず、人間の営みについてである。作中の、「人間と蛇とは?/それもシンセキ」という記述や、「赤い蛇と青い蛇の/悪心」という記述から、人間の男女の性愛が、「赤い蛇と青い蛇」に喩えられているのだと分かる。この性愛によって、男女の間には「こども」が生まれる。
 しかし、そもそも、この男女自身も、それぞれ親から生まれた存在である。男女は、それぞれ産声を上げて生まれてきて、苦しい生を送る。ここで注意したいのは、苦しい生と楽な生があるのではなく、生まれて生きること自体が、そもそも苦しみであるという考えが、この作品の底流にあるという事実である。そのような苦しい生の在り方は、作中では、「岩になる途中」と表現されている。完全に岩になってしまえば楽なのだが、少しずつ岩になっていく過程は、とても苦しいのだ。そうした苦しい生を送る間に、男女は出会い、性交をする。そして、「こども」が生まれて大きく育ち、男女はやがて死んでいくのだが、ここでこの男女はやっと、それぞれ岩になることができる。
 では、この男女は、なぜそれぞれ苦しい生を送らなければならないのだろうか。それは、彼ら自身も、それぞれ、彼らの親の性愛の罪を背負っているからではないだろうか。彼らの親も、そのまた親から生まれ、苦しい生を送り、性交をしてこの男女をそれぞれ設けたのだろう。ということは、ここまで見てきた男女が設けた「こども」も、男女の罪を背負って苦しい生を生きなければならないのである。つまり、この「親の性愛の罪を背負って生まれる」という構造は、無限に続くのである。
 さて、ここからは、その構造の喩えとして登場する、「まぶた」のイメージについて解説したい。先程、人間の営みにおいて、男女の性愛はすなわち赤い蛇と青い蛇であり、また、親の罪によって誕生しその生を生きて死ぬことは少しずつ岩になっていくことだ、と説明した。しかし、今度は、赤い蛇は人体の動脈、青い蛇は人体の静脈を表していて、そして岩は人間の眼の瞳孔を表しているのだと考えてほしい(これが「まぶた」のイメージである)。
 この「まぶた」のイメージと、既に説明した人間の営みを、蛇と岩の比喩を仲立ちとして繋ぎ合わせたい。先程、

 性愛=蛇          人間の罪=岩

 血管(動脈と静脈)=蛇   瞳孔=岩

 という事実が分かった。この等式を組み合わせると、

 性愛=血管(動脈と静脈)  人間の罪=瞳孔

 となる。
 このことを式ではなく言葉で再度表すと、動脈、静脈は両親の性愛、瞳孔は人間の背負う両親の罪を意味しているのだ、と言える。そうすると、「こども」のまぶたや瞳の中には、動脈と静脈という親の性愛や、瞳孔という自分が背負って生まれた親の罪が存在することが分かる。
 ということは、親の性愛が「こども」の目の中にあるのだから、親の性交は、まだ生まれていないはずの「こども」のまぶたの上で行われることになる。もちろん、実際には親の住む家は「こども」のまぶたの上にはないが、そのようにイメージすることが可能である、という意味だ。ともあれ、そのイメージを表しているのが、次の箇所である。

 老いたこどもたちの
 まぶたの双つ丘に建つ古い家を
 軋ませる
 すきま
 ほどの用事をもつ

 「用事」とは、ここでは性交のことを指している。「老いたこども」とは、本当はまだ生まれていないのに、生まれて大きくなっている「こども」を想定した語である。「まぶたの双つ丘」というのは、男親が「こども」の右目、女親が「こども」の左目というような設定であると推測される。男親と女親が交わると言うよりも、男親は男親で罪を犯す、女親は女親で罪を犯す、というイメージである。その二つの罪を抱えているのが、「こども」なのである。いずれにせよ、二人の親が「こども」の右のまぶたと左のまぶたなので、ここでは、「こども」は親となる男女よりも大きい、巨人のようなイメージで捉えられているのである。
 さて、ここまでざっと説明した上で、作品の内容を順番に見ていこう。

 川に浸した巨人の足が
 川上へ のぼっていった
 と伝わっている川のほとり
 男の子は むかしのように
 石を投げる

 大きな蛇が川を泳いでいった
 だけなのかもしれないな

 この第一連と第二連は、「巨人」と「蛇」という語を導き出すために存在している。「巨人」とは、先程説明したように、イメージの世界での、親に対しての「こども」のサイズを示している。「蛇」は、血液(動脈、静脈)と、性愛にまつわる比喩である。
 そして、この二つの連では、「男の子」にまつわる描写もなされている。それによると、どうやらこの「男の子」は、ここではまだ、「まぶた」のイメージを摑んでおらず、つまり人間の営みの仕組み(親の罪を背負って生きる)に無自覚であるらしい。そのことは、「巨人」と「蛇」のイメージが登場するにも関わらず、それがあたかも巨人=蛇、であるかのように捉えられていて、まるでちぐはぐであることからも分かる。実際には巨人=蛇ではなく、巨人の瞳の血管=蛇、であるからだ。
 さて、次の第三連を見てみよう。

 蛇が こどもの
 瞳のなかの
 縮小された岩をよじのぼる
 人間の血液の成分は
 自然の鉱物とほぼ同じ成分の比率で成り立っている
 とこどもが言う
 人間と岩とはシンセキなんだ
 人間と蛇とは?
 それもシンセキ
 理由はないけどね

 ここでは、「こども」の瞳の中にいる「蛇」と、「こども」自身との会話が綴られている。「蛇」と「こども」が会話しているとは、一体どういうことか? —もうお分かりのように、これは「こども」の親と、「こども」の会話なのである。既に何度も説明したが、「こども」の瞳の中にいる「蛇」とは、親のことなのである。だからこれは、子が親に、血液と鉱物にまつわる蘊蓄を傾けている場面なのである。
 さらに私は、この親とは、第一連と第二連で登場した「男の子」ではないかと考えた。この「男の子」は、成長して女性と結ばれ、「こども」を設けたのである。この大人になったかつての「男の子」は、自分の「こども」から、性愛=蛇、という考えを、仄めかすように教えられるのである。この「こども」が人間の生と親の罪、という考えを知っていたかは分からない。だが、その「こども」の発言から、親であるかつての「男の子」はそのような考えに至るのである。

 はだかの声が
 ひとの後ろ姿になり
 行き交う街で
 わたしたちは岩になる途中だ
 くるしい内蔵だらけの岩
 老いたこどもたちの
 まぶたの双つ丘に建つ古い家を
 軋ませる
 すきま
 ほどの用事をもつ

 次の第四連の内容は、この大人になった「男の子」の回想ではないかと考えられる。ここに登場する「わたしたち」という語は、成長した「男の子」が人間一般を指して言っている言葉なのではないかと思うのだ。
 「はだかの声」とは、産声のことである。また、「くるしい内蔵だらけの岩」とは、中途半端に石化して苦しんでいる様子を表している。これはつまり、生の苦しみである。「老いた子供たちの」以下の部分については、既に説明した通りである。かつての「男の子」は、ここでようやく、人間の営みについて、生とは親の罪の結果であるという考えを獲得するのである。

 むかし 理科室の人体模型の
 血管を指でなぞった
 赤い蛇と青い蛇の
 悪心も透ける薄いまぶたの
 喪が晴れ

 軽いこころだけになって
 逝く
 みんなと別れて

 この第五連、第六連は、おそらく老人になったかつての「男の子」の死ぬ間際を描いている。「むかし」というのは、彼の小学校時代だろう。第一連にも「昔のように」とあるため、第一連、第二連はその小学校時代よりも少し時間が経過した、中学校時代くらいを描いているのではないかと考えられる。ちなみに、「赤い蛇と青い蛇」は、既に述べたように動脈と静脈である。そして、このかつての「男の子」は、人間が死ぬこと、つまり両親の罪による生の苦しみから逃れられることを、「まぶたの喪」が晴れる、と表現している。ここでは、「喪」が必ずしも誰かの死を悼む期間という意味で用いられていないことに注意したい。罪のほとぼりが冷めるのを、「喪が晴れる」という言い方で表現しているのだ。「まぶたの喪」という語はタイトルにもあるが、既に説明した「まぶた」のイメージから来ている。かつての「男の子」は、死ぬことで、やっと苦しい生から解放されるのである。
 このように、この詩は、一人の「男の子」が、自らの生を生きることを通して、人間の営みにまつわる新たな考えを手に入れるという一連のドラマを描いたものであると言える。その「人間の営みにまつわる新たな考え」の特徴は、人間の生を必ずしも慶ぶべきことと捉えるのではなくて、むしろ両親の過ちから来る、苦しみに満ちたものとして捉えているところにある。これは、キリスト教におけるアダムとイブの話や原罪という考え方を連想させる。しかし、この詩はそれらをただなぞることはせず、もっと踏み込んで、人間の生の在りように、完全な形で新たな解釈を施していると言えるだろう。最後に、「まぶたの喪」という表現が、絶妙な比喩であることを指摘して、結びとしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?