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山田詠美「電信柱さん」について —無頓着な語り手—

 今回は、山田詠美『タイニーストーリーズ』所収の小説、「電信柱さん」について書く。
 この小説の語り手は、路上に立っている電信柱である。そう聞くと、この小説の特徴について、電信柱の目線から世の中を眺めた作品であると考える人がいるかもしれない。そう考えることはつまり、語り手の最も大きな特徴として、「人間ではなく電信柱である」という点を挙げるのと同じである。いずれにせよ、このような考えを、私は支持していない。私は、この小説の語り手の一番の個性は、「電信柱である」という点にはないと考えているのだ。
 では、この語り手の最大の特徴とは、一体何だろうか。それについて、以下に説明する。
 なお、電信柱が口を聞くなんて、あり得ない設定である、と思う人もいるかもしれない。だが、そもそも小説なのだから普通はあり得ないことでも起こり得る。そう考えた上で、さらに、私はこの電信柱の個性を、一つの「人格」として扱いたいと思う。確かに、この人物(正確に言えば物体)は、その場から動けない、などの電信柱的な特徴は具えている。しかし、それも人間の人格のレパートリーの一つとして、言い換えれば、人間の「変化球」として、扱うことができるだろう。それに、先ほども触れたように、この「人格」の最大の特徴は、「電信柱である」ということにはないのだから。
 さて、この小説について、内容の前半は笑い話、後半は感動話であると捉える人が多いと思う。確かに、前半の内容は、笑いの要素に満ちているようにも感じられる。例えば、

  こんな生涯を与えられたわたくしの運命、ファックです。憤りをぶちまける際の用語が、「ファック」だということ、この間、わたくしの下半身に落書きをしたちんぴらから学びました。(山田詠美『タイニーストーリーズ』文春文庫、p,28)

 とある。落書きで「ファック」と書く、というのはよくある行為であり、落書きされた電信柱がその言葉を覚えてしまう、というのはいかにも笑える展開である。
 また、

  マリアンヌちゃんと呼ばれるそのフレンチブルドッグは、飼い主をお付きの者として従える勘違い犬です。マリアンヌちゃんは今日も御機嫌でしゅねーなどと、犬なのに猫撫で声をかけられ鼻高々で歩いています。そして、わたくしの足許で、必ず、おしっこを飛ばすのです。マリアンヌとか言って、雄じゃねーか! と、忌々しく見降すと、視線に気付いて、こちらを見上げます。(同書、p,30)

 とある。この箇所を読むと、なるほど、放尿する犬は、電信柱にとってさぞかし迷惑な存在であるだろうな、と思い、笑ってしまう。雄のフレンチブルドッグの名前がマリアンヌちゃんという設定も、面白い。
 このように、この作品の前半には、電信柱にとっての悩みの種でありそうな事柄が鏤められていて、そこには「読者を笑わせよう」という、作者の意図のようなものが感じられる。
 作者と言えば、もっと露骨に作者の存在が感じられる箇所がある。作中には、酔って性交をする男女が登場するが、この内の、女の子の方は、女性用ブリーフを穿いていたと言う。そのブリーフには、ガンダムの絵がプリントされていた、と電信柱は読者に打ち明け、

  そういう男受けをねらうんかい、おまえは!(同書、p,30)

 と、女の子に対して毒を吐いている。ここでは、作者である山田詠美の顔が覗いていて、世の中の「男受け」を狙う女性に対する彼女の批判の姿勢が読み取れるようになっている。
 このように、作中前半では、「電信柱あるある」(いかにも電信柱の身に起こりそうな事件の数々)の内容が展開されていて、ここには、読者に「ああ、ありそうだよね」と思わせ、笑わせようとする作者の顔が覗いている。さらに、作者自身が言いそうなことを電信柱に言わせるという手法も使用していて、このことは、読者に、より作者の存在を感じさせる結果となっている。
 笑い話となっている作品前半に対し、後半は、読んでいて涙が流れるような、感動ストーリーとなっている。すなわち、電信柱が、自分の足下に花を咲かせた「さくら草」に恋をするというエピソードである。さくら草は、通行人に吐瀉物を吐きかけられて、やがて死んでしまうため、この話は美しくも哀しい物語として我々の胸に迫ってくる。
 中でも、最も美しいのは、次の箇所である。

  わたくしは、一晩中、励まし続けました。さくら草は、それに応えて、どうにか正気を保っているようでした。苦し気な息で、だるまさんが転んだ、と口ずさんでいます。それは、わたくしが教えた歌です。子供たちは、昔、その歌を歌いながら、わたくしとあそんだのだよ、と。(同書、p,40)

 ここでは、電信柱を使って「だるまさんが転んだ」をして遊ぶ、という昭和期の子供の「電信柱あるある」が登場している。この電信柱は、おそらく昭和頃からそこに立っていたのだろう。そして、ここでは、さくら草の健気な姿や、もうすぐ別れがやってくるという哀しみの予感などと相俟って、「だるまさんが転んだ」の歌から生まれるノスタルジーが、読者の胸を打つ。ここにも、そのような効果を期待している作者の存在が、朧気に感じられる。
 以上より、前半は笑い話、後半は感動話であるが、どちらも、「笑わせよう」とか「感動させよう」などの、作者の意図が窺える。
 しかし、この小説は、あくまでも文学作品である。だから、ただ読者の心を浅いレベルで動かすだけの娯楽作品とは異なるはずだ。また、そのような浅い魅力を享受する心づもりとは異なる姿勢で、解釈にも臨まなければならない。
 再び作品を見てみよう。先程、私は、「作者の存在が朧気に感じられる」と言った。だが、この電信柱の語りを、ここまでのように作者による創作物として捉えるのではなくて、一つの確固たる人格(電信柱の人格)の顕れであると捉えてみてほしい。すると、電信柱がただ淡々と自分の身の回りの出来事を語っているだけで、笑える要素や泣ける要素は、一切無い、というふうに見えないだろうか。
 例を挙げよう。例えば、先ほど私が引用した、犬のマリアンヌにまつわる記述も、作者が書いていると思えば、冗談であるというふうに捉えられるが、電信柱の語りであると思うと、電信柱は自分の悩みを打ち明けるために語りを紡いでいるだけで、読者の笑いは全く期待していない、とは読めないか。同じように、他の「電信柱あるある」の話も、本当に自分の身に起きた出来事を、淡々と語っているだけのように読める。例えば、「だるまさんが転んだ」のエピソードも、別に切ないという感情を読者の胸に呼び起こすために語っているのではなく、ただ事実を語っているだけである、というように。
 このように、この作品を、作者の山田詠美の存在を念頭に置いて読むと、この小説は全くの娯楽作品として感じられる。しかし、作者の存在を一旦忘れ、純粋に電信柱の語りとして読むと、ただ電信柱が自分の身に起こった事件を、我々に伝えようとしているだけなのだと、感じられるだろう。このことは、次のようなことを意味している。
 つまり、この電信柱の語りは、我々読者にはどうしても、我々に笑いや涙を催させる効果を狙っているように感じられてしまう。しかし、実際には、電信柱にはそのようなつもりはない、と読むこともできる。この電信柱は、事実を淡々と語っているだけなのであると。すると、この電信柱の特性は、話している最中に、相手の「ウケ」を全く狙わない、という点にこそあると言えるのではないだろうか。言い換えれば、相手の反応に、究極的なレベルで無頓着である、ということである。この、自分の発した言葉の効果について、聞き手の方を振り返って、その人の表情を見て確認しない、という点こそが、この電信柱の持つ最大の特徴なのである。
 ここには、一つのカラクリがある。それは、作者の存在を仮定して読むと、作中の出来事は作者の恣意性の産物であるように思えるが、作者はいないという立場で読むと、作中の出来事は電信柱にとっての必然となる、という仕組みである。例の、犬のマリアンヌについても、これを作者が恣意的に登場させたものだと考えることもできるが、作者の存在を忘れて読めば、あくまでも電信柱にとって必然の現実が語られているにすぎないことになる。そして、作者の存在を仮定する解釈の方に、作品の読者への「ウケ」の要素がふんだんに盛り込まれているとするならば、作者を忘れた解釈の方には、読者のへの「ウケ」要素は全くないことになる。「ウケ」要素が皆無の話ができあがった途端、聞き手の反応に無頓着な語り手が生まれるのである。
 ここまでで、この語り手の最大の特徴は、実は「電信柱である」という点にはないということが分かってもらえただろうか。この「電信柱」という設定は、公園のベンチにでも、畠の案山子にでも、交換可能である。この語り手のアイデンティティーは、自分から物語を語っておきながら、聞き手の反応には無頓着だという点にこそあるのだから。

 

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