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山田詠美「モンブラン、ブルーブラック」について —見えない図形—

 今回は、山田詠美『タイニーストーリーズ』所収の小説、「モンブラン、ブルーブラック」について書く。
 この小説は、次のような話である。

 主人公の優子は、憧れていた小説家の中条薫子に、あることがきっかけとなり、出会う。薫子の手の甲には青黒い染みがあって、それは自分の「呪いの印」であると、薫子は優子に語る。徐々に薫子と親しくなった優子は、自分の不幸とも言える生い立ちを、薫子に打ち明ける。その優子の過去を、薫子は、なんと本人に無断で小説のネタにしてしまったのだった。その事実と、薫子が自分の恋人を寝取ったことに気付いた優子は、薫子を糾弾する。開き直った薫子は、自分の手の甲を万年筆で何度も突き刺す。まるで、万年筆を握る自分の手、つまり小説家としての性が、自分にこのような悪事を働かせているのだというように。この染み(これが「呪いの印」の正体である)の存在から、次のようなことが分かる。おそらく、既に発表されている薫子の作品は、どれも、同じ手口で他の女性の打ち明け話を小説に仕立てたものであったのだということ。そして、その手口が本人にばれる度に、薫子は手の甲を万年筆で突き刺していたのだということ。以上が、この「モンブラン、ブルーブラック」の大まかな内容である。

 この作品は、一見すると、中条薫子の狂気めいた行動に代表される、小説家という生き物の哀しい性をテーマとして扱っているように感じられる。しかし、作品を細部まで読み込めば、そうではない解釈の仕方が可能であることが分かるだろう。 
 では、それは一体どのような解釈なのだろうか。それは、この小説の中で、薫子は実は凡人として描かれていて、特異性を帯びた人間として描かれているのは、むしろ優子の方であるという解釈である。
 なぜ、そのように読めるのだろうか。その根拠を、以下に示したい。
 まず、小説の冒頭付近には、優子の家に後日、薫子からの手紙が届き、優子がこの事件を再び思い出す、という場面がある。その箇所を引用したい。

  見慣れたブルーブラックのインクで書かれた文字を目にして、優子は、震えた。何か得体の知れない生き物に追いかけられているような恐さを感じたのだ。きっぱりと拒絶した筈の字の群れが、今でも自分を求めている。それらは繊細な姿でありながら、卑しいほどに貪欲なのだ。一度食らい付いた餌の味をまだ忘れてはいない。でも、私は、そんなにも食べ甲斐のある餌だっただろうか。彼女の綴る字たちに、すっかり食い尽くされて、もう何も残っていないような気すらしているのに。(山田詠美『タイニーストーリーズ』文春文庫、p,111)

 このように、例の事件以来、優子は、薫子の綴る文字そのものが自分を追いかけているような気になってしまっている。そのような優子の恐怖感が、より顕著なのが、作品の結末部分の箇所である。

  呼吸のあまりの苦しさに、ようやく我に返って、優子は、その家を走り出た。新鮮な空気を必死に吸い込みながら、あたりを見回すと、外の世界は夜のとばりが降りる寸前。あのインクと同じ色。(同書、p,125)

 とある。これらの箇所について、優子は「文字そのものが自分を追いかけている」と感じてしまうほど、薫子の裏切りに傷付いたのだ、と解釈することも可能だ。しかし、私は、ここは言葉通りに受け取って、優子は誇張ではなく、本当に「文字そのものが自分を追いかけている」と感じたのだと捉えたい。そうすると、宵闇の空気の色に、インクのそれを連想し、怯えるという描写も、比喩表現ではなくなる。
 このように、宵闇の色からインクを連想して怯えるというのが、もし比喩でないとすれば、これは尋常ではない感覚であると私は思う。なぜなら、優子が本当に怖れるべきは、悪意を持って優子の過去を踏みにじった薫子の存在そのものであり、薫子の綴る文字ではないように、我々には感じられるからだ。優子が、薫子の文字を「生き物」のように感じ、それらが自分の過去を食らった、と考えるのは、常人離れした、理解しがたい発想である。それというのも、優子のこの発想は、彼女の事実に対する認識の仕方が普通の人とは異なっていることに基づいているからだ。
 その例として挙げられるのが、薫子の「自分は呪われている」という言葉に対する、優子の受け取り方である。薫子が「自分は呪われている」と言ったのは、「私は自らの才能に呪われている」という意味であったと普通の人は解釈する。そして、その、自分の才能を罰するために、彼女は自らの手の甲に万年筆を突き刺したのだと普通は考える。しかし、優子は、薫子の「自分は呪われている」を、「文字、つまり言葉というものが自分を呪っている」という意味であると考えている。そして、薫子の、自分の手の甲に万年筆を突き刺すという行為について、文字が薫子の身体を操って、彼女にそのような行為をさせているのだと捉えている。そのことは、「薫子の体が、それを振り降ろすたびに、ゆらりと揺れる」(同書、p,124)という一文から分かる。この文章から、優子が、まるで薫子の身体に力というものが入っていないかのように感じていることが窺えるからだ。
 もう一つ例を挙げよう。優子が薫子に自分の過去を打ち明ける箇所である。そこで、薫子は、親切な態度で優子の話に耳を傾ける。

  ところが、薫子は、真剣に耳を傾けるのを止めようとしないのだった。それどころか、優子の曖昧な記憶に信憑性を持たせるべく、丁寧な質問をくり返すのだった。そして、引き出された答えに、彼女なりの考察を加えた。そのたびに、忘れたい事柄が、忘れがたい思い出に変えられて行く。卑しいとすら感じていた過去が、哀切な物語に生まれ変わる。優子は、いつのまにか泣きじゃくっていた。(同書、p,121)

 この後、ここで打ち明けた身の上話は、薫子の手によって文字にされる。そうすると、優子は、自分が汚され、抹殺されたように感じてしまう。
 ここで、普通の人なら、こう考えるだろう。すなわち、薫子が優子の過去を口頭で組み立て直しても、優子が傷付かなかったのは、薫子が、たとえ表面的にせよ、誠意ある態度を取っていたからだ。そして、薫子が優子の過去を文字にした際に優子が傷付いたのは、その時、薫子には全く誠意がなかったからである、と。しかし、優子は、自分が傷付くか傷付かないかの違いを、彼女自身の過去を再構成する薫子の方法の違い(口頭によるか文字によるか)だと思い込んでいる。つまり、文字というものが残酷な力を持っているから、口頭の時は優子は傷付かなくて、文字化された時には傷付いたのだ、というように。
 このように、優子の、事実に対する認識の仕方は、まるでトンチンカンであるように、我々には感じられる。しかしまた、こうも考えられる。なぜ、優子が間違っていると断言できるのだろうか。そう断言するということは、反対に、我々が自分の感覚を過信しすぎているのではないだろうか、と。
 つまり、こういうことだ。例えば、ここに一つの図形が書かれているとする。その図形の一部は、覆いによって隠されていて見えない。そうすると、私達は、見えている部分によって、その覆われている部分の形を推測し、「これは丸だ」などと考える。しかし、本当は、そこに書かれているのが丸であるとは、決して断言できないはずだ。なぜなら、見えない部分については分からないのだから。逆に、覆われている、見えない部分について想像し、「これは丸ではなくて何々だ」などと、他の人とは異なる推測をすることもできる。通常の人が「丸だ」と考えるところを、あえて別の図形であると考えるのである。
 この「モンブラン、ブルーブラック」の優子は、「別の図形だ」と考えるという立場を取った人物である。普通は、優子が傷付いた元凶について、それは薫子が誠意のない行動(優子の過去を無断で作品にしようとした)を取ったからだと考える。これは、ごく自然な考え方であり、図形の見えない部分について「丸だ」と考えるのと同じである。
 しかし、優子自身は、薫子の綴った文字が、自分の過去を食らいつくすという現象が起きたために、自分は傷付いたのだと考えている。これは、見えない部分について「丸ではなく他の図形だ」と考えることに等しい。つまり、優子は、常識とは異なるものの見方を選んでいるのだ。しかし、よく考えれば、こちらも論理的に成り立ち、正解であることが分かるだろう。
 常識的な考えについて、その内容を「真実である」と実証する術は、実はない。それなのに、我々はその常識に寄り掛かりすぎてはいないか。優子の存在は、そんな問題提起を我々に投げかけているのである。
 なお、「文字には魔力などないから、優子の発想は間違っている」と考える人もいるだろうが、それは一般的に信じられていることを、個別の事案に当てはめようとしているだけではないのか。確かに、普通は文字は魔力を持たないかもしれない。しかし、偶然魔力を持ち出すということを否定する根拠は、実はないのだ。  
 以上より、優子は、一見、奇抜な発想をするトンチンカンな人物であるように感じられるが、実は常識に縛られない自由な発想をする人間であるということが言える。

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