山崎るり子「ジャムの瓶」を読む 

  ジャムの瓶 山崎るり子

 ジャムの瓶にははじめ
 ジャムが入っていた
 ジャムが終わると
 庭の撫子が生けられた
 理科で使うミジンコを入れたこともある
 お釣りの小銭や 取れたボタンが
 入っていたこともある
 今はラベルの跡もすっかり消えて
 からっぽの瓶
 ジャムの瓶と呼ばれている
 おばあさんがいなくなっても
 おばあちゃんの部屋
 と呼ばれている部屋がある


 この詩が私達に伝えようとしている内容は、実は末尾の三行に凝縮されています。

 おばあさんがいなくなっても
 おばあちゃんの部屋
 と呼ばれている部屋がある

 おばあさんはもうその部屋を使っていないのに(このおばあさんは亡くなってしまったのだと想像されます)、なぜか私達はおばあさんが以前使っていた部屋のことを「おばあちゃんの部屋」と呼んでしまう。そのことの不思議を指摘しているのが、この詩なのです。ちなみに、ここでは例として、「おばあさん」が挙げられていますが、ここに該当する人物は家族の内の誰でも構わないだろうと考えられます。とにかく、この詩は、私達の言葉の使い方の中にある、一つの不思議を発見するという趣旨の詩なのです。
 ちなみに、この、言葉の用法にまつわる謎というものは、単に表現の仕方の問題だけではなく、私達の認識の仕方という大きな問題に結びついていると言えます。 
 それはさておき、この作品は、“おばあちゃんの部屋”以外に、“ジャムの瓶”についても取り上げています。作品前半で集中的に描かれる“ジャムの瓶”も、最初にジャムが入っていただけで、後は全く関係ない色々な小物が入れられたり、生物が飼育されたりしていました。そして、最後は、ラベルが剥がされてからっぽの瓶になりました。それなのに、人々はその瓶がからっぽになると、再び、「ジャムの瓶」と呼ぶようになったのです。このような、“ジャムの瓶”の不思議は、“おばあちゃんの部屋”の不思議と同じ現象であると言えます。そして、“ジャムの瓶”についての記述は、“おばあちゃんの部屋”の不思議について説明するために、補足として設けられたものであるという指摘ができるのです。
 しかし、一体なぜ、このような補足が必要だったのでしょうか。作者が真に私達に伝えたいことは、“おばあちゃんの部屋”についての不思議であったはずです。なぜ、それについて、わざわざ“ジャムの瓶”を介在して説明したのでしょうか。
 それは、“おばあちゃんの部屋”は「おばあさん」がいなくなった後、いろいろな用途に使われることがないからでしょう。途中、色々な用途に使用されたのに、結局また同じ呼び名で呼ばれる、という状況を描いた方が、作者が描きたい現象の不思議さは強調されるはずです。“ジャムの瓶”は、途中で様々な物が入れられたのに、再びからっぽになった途端、また「ジャムの瓶」と呼ばれるようになりました。“おばあちゃんの部屋”は「おばあさん」のいなくなった後、「おかあさん」の部屋になったり、「おとうさん」の部屋になったりと、その所有者が目まぐるしく変わるわけではありません。したがって、“ジャムの瓶”を介在して説明した方が、“おばあちゃんの部屋”の不思議が、より伝わりやすいと、作者は考えたのでしょう。
 しかし、まだ疑問は残ります。なぜ作者は“ジャムの瓶”についての記述をメインにせずに、“おばあちゃんの部屋”にまつわる記述を主軸に持ってきたのでしょうか。私はそれについて、この詩が収録されている詩集が『家は』というタイトルだったからだと考えます。この『家は』には、「家」にまつわる様々な詩が載っていて、この「ジャムの瓶」という詩も、その一つです。だから、この詩は、タイトルこそ「ジャムの瓶」ですが、テーマとしては、“おばあちゃんの部屋”という呼称にまつわる、つまり「家」にまつわる、新たな発見を扱ったものとなっているのです。
 さらに、この詩は、その展開の仕方において非常に鮮やかな作品であるという指摘ができます。具体的には、それは「起承転結」の形を取っています。最初の、“ジャムの瓶”に入っていた色々な物について具体的に挙げる箇所は、起承転結の「起」、そして「承」を担っています。しかし、からっぽになってもジャムの瓶と呼ばれている、という記述により、具体的な収納物を挙げていくそれまでの箇所から、少し話の展開が変化します。これが「転」です。そして、最後に、“おばあちゃんの部屋”にまつわる記述により、「転」までの意図が明らかになり、「結」となるのです。
 このように、この「ジャムの瓶」という詩は、その核となる発想においても、展開においても、作者の技が鮮やかに決まっている作品であると言えるでしょう。

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