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山田詠美「百年生になったら」について —論理への想い—

 今回は、山田詠美『タイニーストーリーズ』所収の小説、「百年生になったら」について書く。
 この小説の主人公である正子という女性は、作中でこう形容されている。すなわち、「いわゆるステレオタイプの不幸な妻であり母であり嫁」である(山田詠美『タイニーストーリーズ』文春文庫、p,80)、と。なぜなら、彼女は、「夫には、そこにある家具以上の価値を与えられず、娘には、あんなふうにだけはなりたくないと蔑まれ、息子には、口うるさいババアとののしられ、姑には賃金不要の女中扱いされている」(同書、p,80)からだ。しかし、作品を丁寧に読むと、正子の持つ性質は、実は普通の人間とは異なっていることが分かる。
 具体的にどのように異なっているのかについて説明する前に、まず、作品の内容を簡単に紹介したい。

 家族の全員から見下されることで、自分の人生を悲観していた正子は、パート先のスーパーで、万引きをした老女が罪を許されるのを目にする。その瞬間、正子の心の中に、「年寄は、自由だ!」(同書、p,85)という天啓が下る。彼女は、急いで家に帰り、包装紙の裏を使って、「百歳になったら実行すること」のリストを作成する。そこには、強盗や強姦、果てには殺人など、あらゆる種類の犯罪が書き連ねられていた。正子は、年寄りにさえなれば何をやっても許されると知ったため、百歳になったら稀代の犯罪者になるという決意をしたのである。それからというもの、正子は、それらの計画を実行するために、体を鍛えるなどの準備にいそしんだ。すると、それまで自分を見下していた家族が、目標が生まれたことで醸し出されてきた彼女のオーラにたじろいで、彼女にへつらう態度を取り始めた。しかし、息子だけは、彼女に対して相変わらず不遜な態度を取っていた。壁に落書きをして補導された息子に、正子が、「どうせ悪いことに飢えてるんなら、くだんない落書きなんていうちっさいこと止めて、強盗しなさい。強姦しなさい。薬やって大暴れして、その辺、全部燃やしちゃって、片っぱしから人を殺しなさい! 偉そうにするなら、そのくらいやってからにしなさい!」(同書、p,91)と言う。この正子の発言の中身は、「百歳になったら実行すること」のリストの、犯罪の内容と同じである。すると、息子は、必死に笑いをこらえてから、

  「たとえ、片っぱしから人を殺したとしても、ママのことだけは殺さないよ」(同書、p,91)

 と正子に告げる。正子の胸に、息子に対するいとおしさがこみ上げた。彼女が、息子が小学校に入学する時に一緒に歌った、「一年生になったら」の歌が、耳に甦る。それなのに、息子は、

  「あんた殺したら不便だから」(同書、p,91)

 と続ける。その直後の文章は、こうである。

  正子の背筋は、再び伸びた。あの包装紙の裏に、今度は、替え歌を書いてみよう。もちろん、「一年生」と「友達」を、自分仕様の言葉に替えるのだ。
 今、正子の視線の彼方に、赤いランドセルを背中で揺らす老婆が見える。筆箱が鳴る。その中の消しゴムは、すっかり、ちびているが、鉛筆は、削りたてだ。(同書、p,92)

 と、ここで、物語は幕を閉じる。

 ここまで見てきて、正子という女性が、普通の人とは異なっていることに、お気づきだろうか。その異なっている点とは、例えば、万引き犯の老女の行動から、「百歳になったら自由に犯罪を犯せる」という教訓を導き出すところである。確かに、老女の犯罪から、「年寄りは何をやっても許される」という感想を抱くことは、可能である。しかし、強盗、強姦、果てには殺人まで犯せば、いくら老婆でも見過ごしてもらえないことは、普通に考えれば分かるはずである。なのに、正子は、老婆なら許されると思い込んでいる。この例のように、正子の思考は、一応彼女なりの論理に則っていて、ある意味「論理的である」とは言えるが、その内容に現実感があるかどうかがすっぽり抜け落ちていて、結果的に非常に飛躍した発想を抱く結果になってしまっているのが常である。
 他の例についても見てみよう。
 結末付近の、正子と息子のやり取りの箇所である。息子は、「ママのことだけは殺さないよ」と、一旦は正子に寄り添う姿勢を見せておいて、手のひらを返すように「あんた殺したら不便だから」と突き放した。この「あんた殺したら不便だから」は、普通に考えれば、正子のことを便利なモノとして認識した上での言葉で、冷たい響きを持っている。しかも、一瞬、正子に優しい言葉をかけると見せかけて、その後でひどいことを言う、というのは、深い悪意を伴う言動である。それだけに、正子はショックを受け、強い怒りを感じたのだ。
 正子は、息子の言動について、そのように受け取った。しかし、ここからが重要なのだが、私は、息子の態度は、実は全く正反対の意味を持っているのではないかと解釈している。正反対というのは、彼女の息子は、実は母親である彼女を愛している、ということである。「うるせえ、ババア」という口癖も、意地悪な態度も、皆、愛情の裏返しなのである。
 なぜ、そう言い切れるのか。それは、作中に登場する、万引き犯の老女のエピソードの意味について考えると、分かる。この老女は、物語の中で、万引きの言い訳として、皆に自分の身の上話を披露する。

 元々、何もない惨めな人生でした。子供たちにはないがしろにされ、嫁には虐げられ、今では孫たちにまで、汚いと遠ざけられる始末。そもそも嫁いだ時から、居場所などなかったのです。舅、姑からは下女の扱いを受けていましたし、主人は、それを知っていて庇ってもくれませんでした。ずい分と恨んだものです。けれど、晩年を迎えて、ようやく言ってくれたのです。長い間、ありがとう、と。(同書、p,83-4)

 以上が、老女の身の上話の内の、重要な部分である。この老女の「不幸な女性」っぷりは、作り話だけあって、いかにもステレオタイプのそれである。しかし、ここで思い返してみると、正子の抱える不幸の在りようも、また、「ステレオタイプ」ではなかったか。こう考えると、老女の身の上話にまつわる諸々は、正子の人生を規定するものとして把握しても良いことになる。両方とも、「ステレオタイプ」の不幸な女性像であるのだから。
 そうすると、91頁の、正子の息子の「あんた殺したら不便だから」という会話は、老女の作り話に登場する、老女の「主人」の台詞、「長い間、ありがとう」に該当するのではないか。つまり、「あんた殺したら不便だから」は、一見、まるで正子の存在を都合の良いモノのように考えている、不遜な一言であるように感じられるが、実は、「いつもママのおかげで助かってるよ。ありがとう」という優しい意味を秘めた言葉なのではないか。
 「あんた殺したら不便だから」の真の意味が、「いつもありがとう」であるというのは、確かに屈折した愛情表現だ。何しろ、一見、憎しみの表現であるかのように感じられてしまう表現だからだ。だが、ということは、作中での、息子による憎しみの表現であるかと見えた他の言動も、全て愛情表現だったことになる。他の家族が正子にへつらうようになっても、息子の態度が変わらなかったのも、息子は最初から正子に愛情を示していたからに他ならない。
 正子の普通の人とは異なる点というのは、まさに、息子の言動の意味を、正反対に受け取ってしまうという箇所にも顕れている。よく考えると、愛らしかった息子の心が、ある日突然変わってしまうという現象は、一般的にも想像しにくい。ましてや、母親である正子は、自分の息子の心の内を把握していても良いはずである。息子が自分を愛しているのか憎んでいるのかぐらいは、言動以外の要素、例えば息子の雰囲気などから、普通は推測できるだろう。なのに、正子は、「可愛かった息子は変貌してしまい、自分を憎むようになった」という、本当なら現実感の沸かない事柄に、現実味を覚えてしまっている。この、「現実感がまるでない事柄に、現実味を感じる」ということの根底には、彼女なりの論理を重要視しすぎて、現実味などの他の要素を切り捨ててしまっている、ということがある。「息子が口にする内容が、すなわち息子の気持ちである」という彼女の論理は、一応成り立っている。正子は、この論理を妄信しすぎしまったのである。
 ここまで見てきたように、彼女にとっては、論理的な考え方というものが最も重要なのであり、他の要素はどうでも良いのである。この、他の要素を措いてでも論理的な考えを重要視する、という姿勢からは、彼女の、論理というものへの想いを感じられないだろうか。論理に則って考えることを重視するあまり、突き抜けてしまい、常人離れした発想をしてしまう彼女。その姿からは、彼女の「ひたむきな想い」が感じられる。この、論理に対する「ひたむきな想い」は、普通の人が抱いているそれよりも、純粋で、一途な想いであるため、私は、この「想い」を胸に抱く正子の姿に、どこか≪温かさ≫すら感じてしまうのである。
 以上より、「百年生になったら」の正子は、彼女なりの論理的思考を重視するあまり、他の要素を抜かしてしまう人物であるが、そこには論理へのひたむきな想いがあると言える。
 なお、最後に、「百年生になったら」というタイトルについて解説したい。この「百年生になったら」という題は、「一年生になったら」の歌の「一年生」の箇所を正子が替え歌にした際のワードであると、推測できる。そして、その時、「友達百人出来るかな」の「友達」は、「自分より下位の存在」を表す言葉に置き換えられたのだと考えられる。置き換えるワードとして挙げられるのは、例えば、作中の言葉を使うなら、「奴隷」などになるだろうか。要するに、自分よりも下位の存在をたくさん作り、誰からも見下されない人物になりたい、というのが、正子の想像する替え歌の内容なのである。
 だから、結末において、正子は再び決意を胸に抱いていることになる。この時、彼女が何を決意しているのかというと、「偉そうにするなら、それくらいやってからにしなさい!」と息子に説教したその内容を、彼女が実現し、それから「偉い人物」になろうという決意ではないだろうか。「百年生」というのは、強盗、強姦、薬物、放火、殺人など、あらゆる犯罪をやり遂げて、皆から「一目置かれる」人のことを表していると、考えられる。彼女は、結末において、この「百年生」になって、皆から尊敬されようという決意を抱くのである。

 




 

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