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山田詠美「催涙雨」について —究極の“共感者”—

 今回は、山田詠美『タイニーストーリーズ』所収の小説、「催涙雨」について書く。
 この小説を読み終えた後、私は、語り手・律子に対して、「どこか変だ」と感じた。そこで、そう感じた理由について、考えてみることにした。
 まず、彼女は、アルコール依存症である夫の哲生のことを見捨てずに、自分も当事者であると思い込み、精神病院に頻繁に足を運んでいるという点が「変」である。いや、心優しい人物ならば誰でも、自分の夫を見捨てないかもしれない。しかし、律子はまるで、哲生の不幸を自分の身に引き受けているかのようである。いくら医者に、「哲生の依存症の原因をあなたも担っている」と言われたところで、律子は所詮当事者ではない。当事者と、周囲の人間、つまり哲生と律子の間には、本当は明確な差がある。なのに、律子は、自分も当事者であると思い込んでいる。このことが、まず、「変」であると感じた。
 律子のおかしな点は一つだけではない。ここで、仮に、律子が哲生の不幸を背負うことが不自然ではないとする。しかし、彼女が入院患者の里見に共感するのは、まるでおかしい。里見は、自分の妹に恋をしている青年である。彼は、自分は永遠に思いを遂げることはできないと考え、嘆いている。そんな彼に、律子は性的な施しをする。そのこと自体も「変」だが、もっと「変」なのは、次の点だ。
 律子は哲生という夫がいるため、彼女には、いつか哲生が依存症から脱したら、哲生と性交をすることができるかもしれない、という望みがある。仮に出来ないとしても、律子には哲生と性交をした過去の思い出があるはずだ。だから、一生思いを遂げることの出来ない里見とは、立場が異なっている。それなのに、律子は、あたかも里見と問題を共有しているかのような態度を取っている。
 彼女は、里見の、彼自身がアルコール依存症の患者であることを嘆く言葉を聴いて、「雨の降りしきる向こう側に、私の手に入れられるものが何もないように」(山田詠美『タイニーストーリーズ』文春文庫、p,56)感じて不安に思う。しかし、彼女は、里見が自分の妹への想いを語るのを聞いて、ふと、自分たちは、比喩的な意味で“雨宿り”することができるのではないか、と思いつく。つまり、雨の向こう側に実質的に何もなくて、絶望的な状況でも、「雨の彼方を見なければ」(同書、p,57)、“雨宿り”をして楽しむことができるのではないかと。ここには、自分は里見と問題を共有しているという律子の意識が顕れている。先ほど説明したように、律子は哲生という自分の恋する人と結ばれており、妹と決して結ばれることのない里見とは違う。だから、律子が里見と問題を共有しているという意識を持つのはおかしい。
 それに、ここまでは、律子が哲生と同じ「当事者」であるという前提で話を進めてきた。この前提を取り払ってしまえば、つまり彼女が哲生と別れてしまえば、彼女には将来、他人と性交をする可能性はあるはずである。だから、彼女の「手に入れられるものが何もない(のではないか)」(同書、p,56)という不安は、的外れであると言える。
 さて、これらの、律子の「変」な考え方や行動については、一体どう理解すれば良いのか。それらについて解釈するためには、56頁において、律子はまだ、里見の事情に「立ち入りたくない」(同書、p,56)と考えているという事実に注目することが有効だ。
 律子は最初は、里見の問題に立ち入るまいと考えていた。しかし、どうやら、里見が自分の悩みを吐露したことが、彼女が里見に対して性的な事柄をしてあげるまで、問題を共有している意識を持つきっかけとなったようである。つまり、里見の苦しみについて具体的に把握した途端、彼女には、彼の姿が自分の姿と重なっているように感じられたのではないだろうか。このことから、苦しんでいる人間の中に自分の姿を見る、という傾向が、彼女にはあることが分かる。これは、本当の意味で他人と痛みを共有することでもあるため、余人には真似できない、稀有な資質であるとも言える。逆に言えば、彼女には、苦しみを抱いていない人には共感できない、あるいは、その人物がどんな苦しみを抱いているのか知らない限り、その人に共感することは決してない、そんな側面があることが指摘できる。彼女が、最初の内は里見の問題に立ち入らないようにしていたことや、彼女の義母に対して共感しなかったことは、こうした性質から説明できる。
 こう考えてみると、律子が精神病院を訪れることに抵抗を感じなかったことへの説明も付く。彼女は、作中で、「誰だって、そう、私だって、いるべき人になる可能性はある」(同書、p,44)と語っている。つまり彼女は、問題を抱えていない人間も、問題を抱える可能性を潜在的に持っている、と考えているのだ。これは、論理の上では正しいが、どこか無理のある考え方である。なぜなら、問題を抱えていない人は、あくまで「抱えていない」のであり、それは決して「抱えている」ことにはならないからだ。だからこの、「誰もが潜在的に問題を抱える可能性を持っている」というのは、彼女の、他人の苦しみの中に自分の苦しみを見出すという性質がまず先にあって、それを発現させるために、彼女が無理矢理生み出した発想であると、私は考える。
 このように、律子は、真の意味で他人の痛みに共感する才能を持っていることが指摘できる。そのような律子の性質は、自分の夫の哲生がアルコール依存症になった原因は自分にもある、という考えにも顕れている。つまり、律子は、哲生に降りかかった不幸を自分も共有しているのだという論理を無理矢理作り出しているのである。
 以上により、律子は“共感者”としての資質を持っていることが分かる。ただ単に慈愛に満ちた存在としての“優しい人物”なら、世の中にはたくさんいる。しかし、自分が他人の苦しみに共感するという目的が先にあって、そのために有用な論理を、無意識に作り出してしまうというのは、彼女特有の思考パターンである。何より、精神病院に訪れるとくつろいだ気持ちになれる(同書、p,44)という一行が、彼女の特異さを表している。

 


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