山崎るり子「夕春」を読む

突然 
一面

津波のように
押し寄せてくる

花の中で
子ども達は 迷子になり
人さらいに
さらわれる

もういいかあい
もういいかあい

鬼がいくら呼んでも
だれも 答えない

目かくしの両手はずせば
おばあさんが
ひとり

 この詩の内容を纏めると、以下のようになる。

 すなわち、子ども達がかくれんぼをして遊んでいた。すると花(おそらく桜の花)吹雪が押し寄せ、その中で、隠れる役の子ども達は迷子になってしまう。さらに、彼らは「人さらい」にさらわれてしまうのだ。かくれんぼの「鬼」役の子どもが「もういいかあい」と呼びかけても、誰も答えなかった。「鬼」の子どもが目を開けると、そこには一人の「おばあさん」がいた。

 さて、この詩を読んでまず最初に気付くことは、「鬼」は自分の両手によって「目かくし」されていて、一方、隠れる役の子ども達は花吹雪によって「目かくし」されているということだ。さらに、「人さらい」も、途中で子ども達を連れて去ってしまうため、取り残された「鬼」の様子を見てはいない。このように、皆、この詩の中で語られる出来事の全貌を知らない。だが、たった一人、最初から最後までを目撃していた人物がある。それが、「おばあさん」なのである。
 「おばあさん」はしかし、この事件に積極的に関わろうとしない。隠れる役の子ども達が忽然と消えてしまっても、助けを呼ばない。「鬼」役の子どもが「もういいかあい」と叫んでも、皆がもういないことをその子に教えてあげようともしない。また、登場人物の方でも、この「おばあさん」の存在をまるで無視している。例えば、誘拐犯は誰にも目撃されずに犯罪を成し遂げたいと考えるのが普通だが、この「人さらい」は「おばあさん」を目撃者の数に入れてはいない。
 このように、「おばあさん」は確実に出来事の「目撃者」なのであるが、同時にその「部外者」でもあるのである。
 しかし、「おばあさん」——つまり年老いた女性——が「部外者」として扱われるのは、何もこの詩の中だけには限らない。「おばあさん」の前で堂々と犯罪を行う「人さらい」の心理に共感できてしまう人は、決して少なくはないだろう。それは何も犯罪という大それたことで考える必要はなくて、例えば「おばあさん」の前では、つい堂々と化粧を直してしまうとか、またはつい他人とあけすけな会話をしてしまうとか——要するに、少し気が緩んでしまうという程度のことである。だが、それでもそれは、「おばあさん」を「部外者」として見ているということの顕れなのであり、「おばあさん」の人としての地位を軽んじていることになる。
 この詩は、そうした、世間から軽んじられがちな「おばあさん」が、実は出来事の「目撃者」でもあるのだということを指摘する作品に他ならない。皆、「おばあさん」の前では気を緩めてしまうため、そこでは様々な、小さな“事件”が繰り広げられる。例えば、いつもマナーの完璧な男性が、「おばあさん」しか見ていない場所ではゴミのポイ捨てをする、などである。そうした小さな“犯罪”を、「おばあさん」はじっと「見て」いるのである。この作品は、世間からその地位を軽んじられている「おばあさん」に、人間としての尊厳を返し、「おばあさん」とは、実は我々の弱みを握る強者ですらあるのだという指摘をしている。
 このように、この詩は、「おばあさん」という存在の「目撃者」としての性質を強調する作品であると言える。

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