谷川俊太郎「今日のアドリブ *ひげ」を読む

「ひげ」について——計算された奇天烈さ——

ひげが生える
ひげが生える男のあごに男の唇のまわりにひげが生える夜明けと共にひげが生える見知らぬ植物の芽のようにひげが生える女の柔い頬のためにひげが生えるサルバドルダリと共にひげが生えるいっしょうけんめいひげが生える太陽に向ってひげが生える男たち
だが
ひげをそる朝になるとひげをそるバスの時間を気にしつつひげをそるかみそりはジレットバレットひげをそる女の愛撫に恐怖をおぼえてひげをそる血を流しながらひげをそる
もみあげからおとがいへと 鏡の中をすべってゆく死んだ魚
ひげをそる
そのそりあとは青い海ひげをそるカンヌの社交界のためにひげをそるモナコの退屈のためにひげをそるゴルフのグリーンのようにひげをそる士官候補生ひげをそるサギ師ひげをそるやもめひげをそる市民
いけない!
ひげをはやすのだ
テキサスのサボテンのように
ひげをはやすのだカストロのようにひげをはやすのだリンカーンのようにひげをはやす自由を求めてひげをはやすモンクを求めてひげをはやす女たちのためにひげをはやすライオンの兄弟ひげをはやすなつかしい地獄のショーキ様ひげをはやす自然に十分自然にひげをはやすそして演説する男たち

 この詩は、その内容が独創的であるため、作者・谷川俊太郎が自身の感性の赴くままに造形した作品だと考えてしまいがちである。しかし、実はそうではない。この作品には、作者の高度な技術が光っている。そう、これは、谷川の確かな言語感覚に裏打ちされた、実に堅実な詩なのである。
 ここでは、具体的に、その手法について見ていこう。
 作中ではひげについての描写が繰り返されているが、まず、「ひげが生える」という文句が繰り返されている箇所について見ていく。ここでは、体毛が生えるという現象に付き物の、ぞっとするような感覚(しかしそれは必ずしも不快であるとは限らない)を、「句読点がない文章」という異様な形態の文字の連なりによって表していることが読み取れる。
 すると、次に、「ひげをそる」という文句の繰り返しが現れる。ここでの繰り返しは、人間の男達の、自分の容貌や体裁を気にする姿を映し出し、次の二つの事実に気づかせてくれる。それは、男達がひげをそる姿には滑稽さが含まれているという事実と、人類の男性は皆、大昔からひげを蓄えたりそったりしてきたのだという事実である。
 さらに、今度は、「ひげをはやす」という言葉の繰り返しが登場する。ここでは「ライオンの兄弟ひげをはやす」とか、「なつかしい地獄のショーキ様ひげをはやす」などという文句もあり、ひげを蓄える存在は人間の男性だけではない、という事実が示唆されている。世の中に存在する動物の「男」は全て、ひげによる威厳に頼ってきたのだ、という事実にも、この箇所を読むことで思い至る。そう考えると、歴史上の「偉大」とされる人物達も、皆、威厳を保とうと必死だったのだということに気づき、思わず笑いが込み上げてくる。
 このように、「ひげ」にまつわる描写を繰り返すことで、世の中の男性の滑稽な姿を暴き出そうというのが、この作品の意図である。室生犀星の詩に、生殖器をぶらさげる男性の姿をからかった「夜までは」という詩があるが(「男といふものは みなさん ぶらんこ・ぶらんこお下げになり」で始まる詩)、それよりも、谷川の「ひげ」の方が面白いと、私は思う。なぜなら、性にまつわる事象を滑稽視するのは常道だが、「ひげ」という、文化的に威厳の象徴であるものをからかうのは、人間の社会の中にある一つの矛盾のようなものを突いていると思うからだ。
 さて、ここまで、「ひげ」という詩の主題について語ってきた。ここからは、「ひげ」の細部の、言葉の配置に注目したい。
 「ひげ」という作品は、音韻的にも、視覚的にも、大変な工夫がされている。音韻(言葉のリズム)ということで言うと、私は突然挿入される、「いけない!」という一句が好きである。ここは内容的に、「ひげをそる」から「ひげをはやす」の転換点になっているが、ただずっと言葉の繰り返しを並べるだけではなくて色々と変化を付けようという試みの一つでもあり、リズムのアクセントになっている。
 また、視覚的にも変化をつけ、お洒落な仕上がりにしようという工夫が働いている。必ずしも、リズムの切れ目で行替えがなされているわけではないなど、変則的であるところに、作者のセンスの良さを感じる。ぜひ、原文を当たって、縦書きで読んでみてほしい。
 このように、この詩は一見、奇を衒ったような風変わりな詩であるが、実は、細部まできっちりと計算されて作られた、作者の技術力が物を言っている作品なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?