谷川俊太郎「ふつうのおとこ」を読む

ふつうのおとこが いたってさ
ふつうのめはなに ふつうのてあし
ふつうのずぼんに ふつうのうわぎ

ふつうのあめふる ふつうのばんに
ふつうのやきもち ふつうにやいて
ふつうのなみだを ふつうにこぼし

ふつうのおとこは ふつうのひもを
ふつうのおんなの ふつうのくびに
ふつうにまきつけ ふつうにしめた

 この詩は、一読してもらえれば分かると思うが、その文章中に頻繁に「ふつう」という言葉を登場させている。
 しかし、同時に、これは一つの殺人事件について描写する文章となっている。殺人というものは、本来であれば必ずしも「ふつう」の行為とは言えない出来事であるはずだ。なのになぜ、「ふつう」という語が冠せられているのだろうか。
 ここで、この詩を読む際にしてしまいがちな誤読は、「殺人事件というものは、それに関わる当事者達にとっては切実な出来事だが、無関係の人々にとっては、『ふつう』の事件として感じられてしまう」というような主張を、作品から読み取ったような気になってしまうことである。この詩を厳密に読むと、そうしたテーマをメインに扱ってはいないことが分かる。この詩を読む際に重要なのは、「殺人事件」を、「平凡な事件」と捉えるのではなくて、むしろ「『ふつう』ではない事件」として捉えることである。
 その上で、本文を、しっかりと見てみよう。本文では、既に述べたように、「一人の男が、嫉妬から女を殺した」という内容の文章の中で、名詞や動詞が登場する度に、「ふつう」という語が冠せられている。だが、殺人事件は「ふつう」ではない出来事なのだから、それが書かれた文章の中に、「ふつう」の語を導入したら、一見、意味が矛盾するような気がしてしまう。しかし、実際には、この詩は成り立っている。それは一体なぜだろうか。
 それは、殺人という、「ふつう」ではない出来事にも、それを一つ一つの行為に分解したら、「ふつう」という語を冠する余地が生まれるからである。
 具体的には、例えば、第三連の「ふつうのおとこは ふつうのひもを ふつうのおんなの ふつうのくびに ふつうにまきつけ ふつうにしめた」を見てほしい。「女の首を紐で絞める」という行為は、「ふつう」ではないが、それを一つ一つの言葉に分解し、それぞれを「ふつう」という語によって修飾することは可能なのである(「ふつうにしめた」は、他の殺人事件とは変わらないやり方で、という意味だろう)。同じことは、男が嫉妬する様子について語った第二連にも言える。このように、「ふつう」ではない情景を描写している、つまり「ふつう」の語とは正反対の内容が綴られている、第二連、第三連に、この詩の真骨頂はあると考えられる。
 以上より、作者は、「ふつう」という言葉の性質を利用して、一見、成立しないのではないかという文章を、見事に成立させていると言える。この詩は、「ふつう」という語のポテンシャルを試しているという点で、言葉遊びの詩であると言える。『わらべうた 続』という本に収録されていることからも、この作品が言葉遊びを主眼としていることが推測される。

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