谷郁雄「肺の標本」を読む

切り取られ
標本にされた
二つの肺

一つは
ヘビースモーカーの肺で
黒ずんだ色
もう一つは
ノンスモーカーの肺で
きれいなピンク色

でもさーと
誰かが
鋭い指摘

「どっちの人も
死んじゃったんだよね?」

 二つの肺の標本に関して、「鋭い指摘」をする人物がいたらしい。その人物の言葉を私たちに紹介する、という形で、作品は展開する。ここに登場する「鋭い指摘」(「どっちの人も 死んじゃったんだよね?」)は、一見、「肺の標本」について上手いことを言った、ただの頓知のように見える。しかし、実はそうではない。
 「どっちの人も 死んじゃったんだよね?」は、健康的に生きようが、不健康な人生を送ろうが、最後に残るのは「死んだ」という結果のみである、という意味である。これは、“結局は全て滅んでしまう”、あるいは“滅んでしまえば皆同じだ”、という、ある種のペシミスティックな思想を連想させる。このような思想は、人間の営みを、大きな視野で眺めた時に、初めて生まれる考え方であると言えるだろう。
 しかし、この言葉は、そうした大きな問題を連想させながらも、作品の主眼としているのはむしろ、あくまでも、「肺の標本」にまつわる一つの矛盾への指摘である。つまり、あたかも「良い人生の例」と「悪い人生の例」であるかのように並べられている二つの標本に、「本当はどちらも同じではないのか」という問いかけを発しているのである。この「肺の標本」に関する「発見」は、常にひっそりと存在してはいるけれど、誰もそれに気づいていない、物事の裏面への気づきであると言えるだろう。
 無造作に放り投げられた、「どっちの人も 死んじゃったんだよね?」という言葉に、深い価値を見出している語り手。語り手は、この言葉が表す事柄に、確かに「詩」を感じたに違いない。

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