川崎洋「海」を読む

かん声をあげて
海へ走り
しぶきのなかに消える
子どもたち

わたしは
砂に寝て
海を想っている

ひとつづきの塩水よ
われらが夏の始まりは
いずれの国の
冬のまっさかりか

そして
わたしの喜びは
誰の悲しみ?

 この詩の語り手は、せっかく海に来たのに、海に入らずに、「砂に寝て/海を想っている」らしい。「海を想う」とは、具体的にはどんなことを考えているのかというと、

 ひとつづきの塩水よ
 われらが夏の始まりは
 いずれの国の
 冬のまっさかりか

 そして
 わたしの喜びは
 誰の悲しみ?

というようなことを考えているのだ。
 つまり、海が「ひとつづきの塩水」であることに思いを馳せ、この海に触れているのは、語り手の前で遊んでいる子どもたちだけではなくて、地球の反対側にいる人々もそうである、と考える。そして、自分たちは今、夏を迎えているが、地球の反対側では冬まっさかりである、と気づく。その後に、喜びと悲しみもまた、球体の上にある「ひとつづきの塩水」のようなもので、自分の喜びがすなわち他人の悲しみである、という考えに思い至るのである。
 海と遊び戯れる子どもたちとは対称的に、大人である語り手には、海を見ても、無条件にははしゃげない。それは、海を見ると、自分の喜びが誰かの悲しみであるという、残酷とも言えるこの世の真理を連想せずにはいられないからだ。このような大人の哀愁が、この詩で描かれている事柄であると言えるだろう。
 注意しておきたいのは、語り手は、海を見て初めて、「自分の喜びは誰かの悲しみである」という真理に辿り着いたのではない、ということだ。語り手は、「自分の喜びは他人の悲しみの上に成り立っている」という現実を、日々味わっているからこそ、海を見ることによって、それが言語化されたのであろう。まだ世の中のことを知らない子どもたちが、海を見ても、そのような教訓を引き出したりしないという事実からも、それは分かる。大人のほろ苦い実感。それに共感することが、この詩を味わうということなのだろう。

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