井坂洋子「壜づめ」を読む

「壜づめ」について—人とフィクションとの関わり—

井坂洋子「壜づめ」

許可がおりなくても
大勢
建物へ集まってくる

生長を隠そうとしない女が
生卵の先を
割って含んでいる
用を足す
くらがりはどこにでもあって
恐いものでも見たのだろう
快晴の門を走って来
息もつかずに
脱いだ形跡がある
撮影班の処理によって
事故を装うこともできる
もちものは
すべて没収され
部屋中に服が吊るしてあるのだが
男ものである
血のついた衣紋掛けの骨も
撮影に使用されたものだ
共同のたたきには履き物がかたまっていて
うす汚れ
どれも似ているが
内側をつまみ
下駄箱の段へ
並べていくとどうしても余る
口裏をあわせるために
餓鬼のくつ修羅のくつ
と勘定する女の甘い声が
テープで流された

撮影中
急に死んでいった女を待ち
すすきの原に
風が吹き
あちこちを呼ぶ白い手の近くに
人がまばらに立っている
死骸をはこぶ
力もなく
壜づめにされて
大きな目が近付いてくるような
夕日を見
段丘に列をなす卒塔婆を見
はやく焼いてしまわなければ
と思うのだが
みな桶の水を下におき
濡れ手のまま
放心しているばかりで
写真にはどの位置からも
死体の一部が映ってしまうのだった

 この詩は、怪奇現象を題材として扱った作品である。作品の内容を整理すると、以下のようになる。

 ホラー映画あるいはホラードラマの撮影のために、不気味であると評判が立っている建物(おそらく肝試しに人がよく集まって来るのだろう)に滞在している撮影班。しかし、その建物の中で撮影を行ったら、不思議なことに、班のメンバーがどんどん死んでいってしまうという事態が起きた。また、「写真にはどの位置からも 死体の一部が映ってしまう」という現象も起きていて、撮影は難航していた。つい最近も、メンバーの一人である男性が死んでしまったばかりだった。そのような怪奇現象を怖れて、建物の中で撮影しているのにも関わらず、一人の太った女性は、わざわざ外まで出て来て用を足していた。すると、生卵をすすりながら用を足していた彼女に怪奇現象が降り掛かって、彼女は急死してしまった。一方、前に死んだ男性を建物の外の別の場所で埋葬しようとしていた他のメンバー達は、女性を待ちながらも、その男性の死骸を担ぐことすら出来ず、放心していた。彼らは夕日を眺めていたが、その夕日について作者は、「壜づめにされて 大きな目が近付いてくるよう」であると描写している。

 さて、この作品の面白さは、撮影班のメンバー達が、自分達に降り掛かる怪奇現象を、劇中劇(彼らが撮影する作品)の怪奇現象として処理しようとしているところにあると、私は思う。「撮影班の処理によって 事故を装うこともできる」というのが、それを表現している箇所である。そして、そのことについて具体的に記した箇所が、「下駄箱の段へ 並べていくとどうしても余る 口裏をあわせるために 餓鬼のくつ修羅のくつ と勘定する女の甘い声が テープで流された」である。これは、作中でメンバーの男性(役者か)が死亡したため、演じる人物の数よりも一組多く、靴が余ってしまうことを指している。それを彼らは、「お岩さん」のような怪談話を劇中劇の中に挿入することによって、故意にそのような演出にしている体を取ったのである。
 ここで、末尾の「写真にはどの位置からも 死体の一部が映ってしまうのだった」という二行に注目してほしい。彼らは、自分達の身に降り掛かる怪奇を、なんとか演出の一部だと説明することによって、劇中劇の撮影を続けようとしていた。「写真にはどの位置からも 死体の一部が映ってしまう」という状況は、本当なら、格好のドキュメンタリー映画(ホラーな味わいのもの)のネタになるはずだ。しかし、彼らは、そのことによって撮影を中止せざるを得なかった。そのことは、人々が放心する様子から、読み取ることができる。つまり、これは演出の一部だ、というはったりの姿勢は、ここに到って頓挫してしまったのである。
 このことは、フィクションの作品を創ろうとする人々(撮影班のメンバー)の矛盾を、アイロニカルに描き出すという効果を挙げている。そしてそれは、人間とフィクションとの関わりを根源的に問うことにも繋がっている。なぜなら、怪奇現象を描いた作品(劇中劇)を撮影しようとやって来たのに、いざ本物の怪奇現象が起きたら、撮影は中断せざるをえないからである。それでも撮ってやろうとカメラを回す人物は、この詩の中には現れない。これは、この人々がただ単に臆病であるというだけではなくて、人間と、フィクションという概念との関わり方に起因しているのだと思われる。フィクションとは、あくまでも人間の意図の範囲内で創られるべきものであり、それを超えてしまったら、創ることは中止せざるを得ないのである。
 さて、ここで、この詩自体が一つのホラー作品である、という事実にも、着目すべきである。すすきを「白い手」と表現したり、夕日を「大きな目」と表現したりすることは、ホラー作品の常套手段であると言える。夕日=「大きな目」、という認識の仕方は少し独特だが、情景をいかにも不気味に描写する、という点では、ありふれていると言える。このように、撮影班の人々の周囲には、ホラー映画を撮るための格好の題材が転がっているのである。しかし、いざ自分たちが作品(この詩)の中の登場人物の一人となってしまうと、彼らには、幽霊に立ち向かう力はなくなってしまうのである。
 つまり、作品とは、その外側にいる人々にとってはただの作品だが、その中にいる人間にとっては、あくまでも現実、不可避の現実なのである。そのことは、一方では、先程言及した、人とフィクションの関わり方、ということによって説明することができるが、もう一方では、作品内の人物達は、作品の作者によって動かされているから、という事実によって説明することができる。
 この作品のタイトルの「壜づめ」とは、そのことを表しているのではないかと、私は思う。このタイトルの由来は、作中の「壜づめにされて 大きな目が近付いてくるような 夕日を見」とあるが、この「目」とは、この詩の作者や読者のそれなのではないかと、私は推測する。間違っても、怪奇現象を起こした幽霊のそれではない。
 そう考えると、我々の住む現実世界も、その「外」の世界にとっての「作品」なのではないかという考えが、萌してくるだろう。つまり、我々自身も、また、作品内の登場人物なのではないか、と。
 このように、この詩は、自分が現実世界だと思っているものが、実は作品の内側なのではないか、という考えについて、ホラー映画を撮る際、実際に怪奇現象が起きたら、しまいには撮影を中断するものだ、という人間の倫理を描くことを通して説明しようとしている作品なのである。

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