辻征夫「旅の記念」を読む
ごらん
これがこの地方の
家屋というものだ
むかしながらの
木と藁で
できているから
火をつければ燃えあがる
燃えればとなりに燃えうつる
村ぜんたいが
火の海だ
さ ここにマッチと
あぶらがある
燃える村を背景にして
わたしたち
写真を一枚撮っておこう
題して
旅の記念
あるいは
燃えつきよ青春!
この詩の特徴は、言うまでもなく、昔の家屋を燃やすという犯罪行為と、それを写した写真に「燃えつきよ青春!」という題を冠することのちぐはぐさにあると言える。確かに、「燃えつきよ」という言葉通り、家屋は燃えるだろう。しかし、その恐ろしいとも言える状況に、「燃えつきよ青春!」といういかにも爽やかな言葉は、まるで不釣り合いである。そのアンバランスさを、我々は一体どのように受け取ったら良いのだろうか。
その受け取り方の一つとして、誰もが「これはちぐはぐだ」と感じるような内容を語ってみせる、その語り手の特異な人物像に注目する、といった方法が挙げられる。しかし、ここで、私自身がこの作品の一体どの要素に、面白さを感じているのか考えたい。それはやはり、語られる事柄の順番ではないだろうか。例えば、仮に、「わたしたちは、これから『燃えつきよ青春!』という写真を撮るから、一緒に古い家屋を燃やそう」という順番で話が展開されるとしたら、この作品は全く面白く感じられないだろう。
つまり、この詩には、オチの冴えがあると言える。「燃えつきよ青春!」の一言で、話を一気に完結させる、そこに鮮やかさがあるのだ。
そのような冴えたオチのためには、その直前まで、一定方向に、話を盛り上げる必要がある。語り手によって、彼らがこれから行おうとする行為が、順々に説明されていくというのが、それである。しかし、その説明の「意図」については、読者は、最後の一行になるまでは理解できない。だが、末尾の一行に至って初めて、「古い家屋を燃やすことと『燃えつきよ青春!』のアンバランスさで笑わせたかったのか」と、「意図」が読者に伝わるのである。
したがって、この作品は、文面の向こう側に、語り手という一人の人物を想定して読んではいけない。そのような読みだと、この作品の特徴が、語り手の一つの「性格」に集約されてしまい、語られる順番、ということを問題にできなくなってしまうからだ。
ここでは、文字の向こうに語り手を想像することではなく、語られる言葉そのものに注目することが、求められていたのである。
だから、この作品の、内容がいかにもちぐはぐであるという特徴は、我々を笑わせてくれる作者のユーモアであると、捉えるのが良いと言える。
さて、既に述べたように、この詩は、オチに至るまでの話の盛り上げ方も上手い。そこには、展開のリズム感や、語り口の軽やかさといった特徴があることが指摘できるだろう。また、タイトルの付け方も、凝っている。「旅の記念」というのは、写真を撮る意図についての説明の言葉であるが、それをタイトルにすることで、作中に冗長な箇所がないように仕組まれている。
以上により、この詩は、その「語り」、言い換えれば「言葉の配置」に、作品の命があると言えるだろう。
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