山村暮鳥「風景」を読む

 風景ー純銀もざいく

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。

 この詩を解く鍵は、作品の題と副題にある。すなわち、「風景」と「純銀もざいく」である。
 まず、「風景」という題に注目したい。この詩に出てくる四種類の表現を並べてみると、「いちめんのなのはな」、「かすかなるむぎぶえ」、「ひばりのおしゃべり」、「やめるはひるのつき」である。これらの表現について考察していく。
 まず、「いちめんのなのはな」は、「一面の菜の花」であり、作者の眼前に広がる菜の花畑を表している。つまりこれは、作者の視覚によって把握される景物なのである。
 一方、「かすかなるむぎぶえ」、「ひばりのおしゃべり」は、麦笛の音色と、ヒバリの鳴き声であり、作者が聴覚を働かせて捉えた音であると言える。ここで重要なのは、「風景」と題されてはいるけれど、それは、必ずしも作者の目に映る景色だけではなくて、耳に聴こえてくる音も、「風景」という言葉の内に含まれているという事実である。
 そして、「やめるはひるのつき」は、「病めるは昼の月」であり、昼の月がまるで病人の顔のように青白い色をしている、という意味である。ここで再び、作者の視覚に訴える景物が登場する。
 以上の四つの要素を含んだ景色が、作者の前に広がる、一つの「風景」である。
 さて次は、「純銀もざいく」という副題に注目しようと思う。この副題は、そうした「風景」を表す四つの表現を、文字にして並べたことの意図を示している。
 まず、「純銀」とはどういう意味だろうか。—それは、上に示した四つの景物が、全て「銀」のイメージを伴っているという意味である。一面に広がる菜の花は、「銀色」を湛えている。また、かすかに聴こえる麦笛の音や、ヒバリ達の鳴き交わす声は、その透明な響きから、「銀」であるかのように作者には感じられた。そして、最後に、青白い昼の月も、「銀色」に輝いているように、作者には捉えられたのである。
 ここで重要なのは、これらの全てを「銀色」であると考える作者の捉え方の内に、これらの景物の美しさを讃えるニュアンスが含まれているという事実だ。菜の花は、正確に言えば黄色であり、銀色ではない。昼の月も、本当はただ白いだけだ。そして、麦笛の音やヒバリの声を銀であると捉えるのには、大きな飛躍がある。
 しかし、作者の前に現れたそれらの景物は、あまりに美しく、彼はそれに感動しているのだ。そして、何とかしてこの「風景」を讃えようと思った。そこで、これらを「銀」であると表現することによって、その輝きや透明感を、我々に伝えようとしているのである。つまり、「銀」という表現は、一つの美称としての役割を果たしているのだ。
 このように、この「純銀もざいく」は、銀のイメージを伴うものを集めた、言葉によるモザイクなのである。モザイクと言えば、色々な種類の石が並んだ物である。だから、「いちめんのなのはな」という言葉一種類だけではなくて、他の三つの言葉も、たまに混ぜ込まれている。
 ところで、私が中学生の頃使っていた、国語の便覧には、「いちめんのなのはな」という表現の一つ一つが、菜の花の一本一本を図像化したものとなっていて(本来は、この詩は縦書きであるため)、平仮名は風にそよぐ菜の花の花びらを表している、と書かれていた。しかし、これは完全な誤読である。この作品で、言葉が敷き詰められているのは、上で述べた、「言葉によるモザイク」という手法を、作者が試みたかったからに他ならない。決して、ここでの言葉は、風景を図像化したものなどではない。
 つまり、この詩から読み取るべきことは二つあるのだ。一つは、「風景」という言葉が導いてくれる、一面の菜の花と、麦笛、ヒバリの鳴き声、青白い昼の月、という、春ののどかな一つの景色である。もう一つは、「純銀もざいく」という言葉に従えば理解できるのだが、それら、「銀」のイメージを伴った四つの物を表す言葉が敷き詰められているという事実である。
 これらを読み取ったら、その二つの背後にある、作者の意図−、すなわち、春の美しさを讃えるという意図に気づくに違いない。



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