小池昌代「永遠に来ないバス」を読む

小池昌代「永遠に来ないバス」について

朝、バスを待っていた
つつじが咲いている
都営バスはなかなか来ないのだ
三人、四人と待つひとが増えていく
五月のバスはなかなか来ないのだ
首をかなたへ一様に折り曲げて
四人、五人、八時二○分
するとようやくやってくるだろう
橋の向こうからみどりのきれはしが
どんどんふくらんでバスになって走ってくる
待ち続けたきつい目をほっとほどいて
五人、六人が停留所へ寄る
六人、七人、首をたれて乗車する
待ち続けたものが来ることはふしぎだ
来ないものを待つことがわたしの仕事だから
乗車したあとにふと気がつくのだ
歩み寄らずに乗り遅れた女が
停留所で、まだ一人、待っているだろう
橋の向こうからせり上がってくる
それは、いつか、希望のようなものだった
泥のついたスカートが風にまくれあがり
見送るうちに陽は曇ったり晴れたり
そして今日の朝も空へ向かって
挨っぽい町の煙突はのび
そこからひきさかれて
ただ、明るい次の駅ヘ
わたしたちが
おとなしく
はこばれていく

 この詩の中には、一つの謎が存在する。それは、バスに乗り遅れた「女」とは、一体何者であるのか、という疑問を展開していくと、行き当たる謎である。作中では、「わたし」の語りで話が展開していくが、途中で「女」の視点に切り替わる。というよりも、「わたし」が「女」の心中を想像して語りを紡いでいく。このように、「わたし」は、一方ではバスに乗りつつも、他方では「女」の心中を予想しているため、視点が二つに分裂して(「ひきさかれて」)いるような印象を、読者に与えている。
 私は、この乗り遅れた「女」は、「わたし」自身であると推測する。つまり、最初は、バスを待つという「わたし」の現実の行為を描いているが、それに乗り遅れた「女」を空想することによって、バスも象徴性を帯びるのである。つまり、何かの象徴である「バス」に、乗ることのできる「わたし」と乗り遅れてしまう「わたし」が、同時に存在するのである。これが何を意味しているのか、というのが、この作品中に存在する“謎”である。
 ここでは、この謎の答えは、「未来」というものであると、とりあえずは考えることにする。すると、この詩は、まずは「時間」をテーマにした詩なのだと言うことができる。
 「未来」もしくは「明日」というものは、やがて「現在」あるいは「今日」、と名を変えて、我々の前にやって来る。しかし、考えようによっては、「未来」という概念そのものは、常に我々の一歩先にあり、決して捕まえることはできない。「現在」や「今日」は、捕らえることができるが。
 このように、「未来」や「明日」に対する、二通りの感じ方があることは、お分かりいただけただろうか。二通りの考えとはつまり、「『未来』は我々の許へちゃんとやってくる」という考えと、「『未来』は我々の許へ決してやっては来ない」という考えである。作品に登場する二人の「わたし」は、まさに、それぞれ、この二つの考えを象徴しているのだ。すなわち、バスに乗ることのできた「わたし」の方は、「『未来』はやって来る」という見方を表していて、乗り遅れる「わたし」(「女」)の方は、「『未来』はやって来ない」という考えを表している。
 この詩は、その二つの見方の内、当然、「やって来ない」という考えの方に重点を置いている。言い換えれば、「『未来』は決して捕まえることができない」という考えを、一つの発見として提示しているのである。
 この、未来に対する作者の発見を指摘したところで、もう一歩、話を進めたい。この詩が提示するものが、その時間にまつわる「発見」だけであるならば、その「発見」の内容は、自明の事実であるため、話は面白くないだろう。この作品は、さらにもう一段階、考えを発展させている。
 この詩は、未来の二通りの性質を指摘していると、先程、私は述べたが、この詩が本当に伝えたいことは、未来に親和性のある、ある物の性質である。
 その「ある物」とは、「詩」である。作中の、「来ないものを待つことがわたしの仕事だから」という一行を見てほしい。「わたし」イコール作者であると、仮に考えるとするならば、「わたし」の仕事、言い換えれば職業は、詩人であるということになる。作中の「来ないもの」、つまり「バス」が象徴しているのは、実は「詩」であったのである。
 作品で、「詩」が「来ないもの」とされる理由は、「未来」が「来ないもの」とされるメカニズムと同じである。この作品は、「詩」というものが、本来「未来」に属するものであることを前提としているのだ。
 先程の、私の「未来」に関する二通りの考え方を、「詩」に当てはめて考えてみてほしい。「わたし」にとっては、まだ発見されていない、「詩」未満のものが、すなわち「詩」なのであり、「わたし」がそれを発見し、紙に書き留めてしまったら、もうそれは「詩」ではないのだろう。
 「詩」の持つ二つの性質、というと、詩を書かない読者には分かりづらいかもしれない。だから、この作品は、まず、「未来」という、「詩」に親和性のあるものをクッションにして、「未来」の二つの性質を読者に考えてもらい、次に、それと似た「詩」の性質へ、思いを馳せてもらう、という形を取っている。
 このように、この「永遠に来ないバス」という作品は、「詩」について書いた詩なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?