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山田詠美「紙魚的一生」について —知性溢れる語り手—

 今回は、山田詠美『タイニーストーリーズ』所収の「紙魚的一生」という小説について書く。
 この作品の語り手の正体は、なんと、紙魚(しみ)である。紙魚とは、書物の頁を食らう、あの小さい虫のことだ。しかし、この作品は、物語の最後に、語り手が実は紙魚であることが明かされる構成になっていて、そこに至るまでは、語り手は人間の女性であるかのように思わせる仕組みになっている。したがって、「語り手は紙魚である」という設定は、あくまでも物語のオチとして使用されているだけなので、ここでは、語り手を一人の人間として捉えたい。その上で、その、人間の女性である語り手の持つ特有の性質に、迫っていきたい。
 さて、女性の語りに見えたものが、実は紙魚の語りだったというどんでん返しが、なぜ成立するのかというと、それは、この女性が知性に憧れているという設定であるからである。彼女は、娯楽小説しか読むことができないのだが、難解な書物を読み込み、豊かな知性を持っている男性と巡り会うという夢を持っている。そうすることで、自分もその男性から影響を受け、知的な生活を送れるようになりたい。そのように、彼女は願っているのだ。これを、物語のオチを考慮に入れると、娯楽の本しか食べてこなかった紙魚のメスが、難解な書物を食らってきたオスの紙魚と結ばれたいと夢想する話、ということになる。もちろん、紙魚という生き物は、ただ紙を食べているだけで、そこに書かれた内容を理解しているわけではない。だから、ここには作者の遊び心が反映された、ちっちゃな嘘がある。それは、紙魚という生物は食べた書物を理解している、という嘘である。いずれにせよ、ここでは、語り手が紙魚であるというオチについては一旦忘れて考察していきたい。語り手は本当は紙魚であるけれども、一人の女性であると考えた方が、面白く読めるからだ。
 さて、前置きはここまでにして、次は、内容に移りたい。知性を求めているこの語り手は、既にその知性を手にしていると、私は考える。
 例えば、彼女は、いわゆる「お涙頂戴」ものの作品を読んで泣くような人物を、次のような言葉で風刺している。

  自分の涙が宝石のように思える瞬間は、恍惚を呼び寄せる。それは、解る。しかし、どうせなら、本当の宝石の方がはるかに価値がある。(山田詠美『タイニーストーリーズ』文春文庫、p,193)

 この、「宝石のように美しい涙」よりも、本物の宝石の方が価値がある、というのは、鋭く辛辣な意見である。このような批評の感覚は、本をほとんど読んだことのない人間から、普通は生まれるものではないと思われる。
 同じように、次のような意見も、難解な書物をたくさん読んできた人の言葉であるように感じられる。

 書物なんて、字の順列組み合わせでバリエーション作ってる、ただの紙の束だろうよ、ばっきゃろ。しかしなあ、こうも感じて溜息をついてしまいもするのですよ。順列組み合わせだけで、色んな世界をつくっちゃう。やっぱり、書物は偉大、かもしんない。(同書、p,197)

 この語り手の言葉には、難解な書物を讃える気持ちが溢れている。それもそのはず、この言葉の裏には、小説の作者である山田詠美の素顔が覗いているからだ。この小説の大半は、そうした、「作者の意見」と感じられる言葉で埋め尽くされている。しかし、作者は、それを自分の言葉ではなく、あえて、「知性の欠片もない」と自らを形容する語り手の言葉として発表した。それはなぜだろうか。
 それは、語り手を、世の中に実際に存在する「知性の欠片もない女性」と比較して、その特異性を際立たせるためである。書物をほとんど読んだことのない女性が、「文字だけで色んな世界をつくってしまう」という、書物の魅力に感動することは不可能である。だから、この、書物の魅力への感動は、作者自身の述懐である。それを、あえて、本をほとんど読んだことがない語り手の語りにすることで、語り手の頭の良さを際立たせようと試みたのである。
 他にも、語り手は、自分が知性を「過信」していることを自覚していたり(ここには知性というものの価値を疑うという大胆な姿勢が窺える)、書物を読まない人間が多いという現実を嘆いたりしている。これらはいずれも、普通は本を読んでいない人物からは決して生まれない優れた意見である。
 したがって、「紙魚的一生」について、以下のようなことが言える。
 この小説は、難解な書物を読みこなしてきた作者が、自らの意見を、ほとんど本を読まないという設定の女性に仮託して述べるという形式を取っている。そのような形式を取ることによって、語り手の女性が特異な存在(具体的には恐ろしく知的な存在)として、読者の目の前に現れるという効果を挙げている。

 

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