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山田詠美「にゃんにゃじじい」について —鋭い目利き—

 今回は、山田詠美『タイニーストーリーズ』所収の小説、「にゃんにゃじじい」について書く。
 この物語は、以下のような内容である。

 中学生の鈴江という少女は、近所の本田次郎という老人と知り合いになる。次郎は、猫をたくさん飼っているため「にゃんにゃじじい」と呼ばれていた。また、次郎には妻の園子がいるが、彼女は高齢で、寝たきりであるため、デイサーヴィスの人に介護を頼んでいる。園子の介護を務めているその人物は、志村という若い青年であった。鈴絵はやがて、志村に恋心を抱くようになる。
 ある日、鈴絵は、「猫が好きだ」と話す次郎に、「女の人も猫みたいな人が好き?」と尋ねる。途端に次郎は目を吊り上げ、「猫みたいな女などこの世に存在しない。猫のように振る舞おうとする女は多々存在したが、私は大嫌いだった!」と叫ぶ。鈴絵が事情を聞くと、次郎は、昔、猫のように振る舞う女たち、言い換えれば彼に媚びを売ってくる女たちに苦労したらしい。それを聞いた鈴絵は、「私はこの先、猫真似する女にだけはならない」と誓う。
 その夜、鈴絵は次郎の夢を見た。立っている次郎が現れたと思ったら、何匹もの猫も出現して、次郎の体中にまとわりついた。すると、園子が現れて、その猫たちを一匹ずつ、次郎からむしりとって放り投げるのをくり返した。全ての猫が取り除かれた瞬間、次郎はいつのまにかデイサーヴィスの志村に変わっていた。
 ある日、次郎が、彼の秘密の恋人らしき女性と出かけている間に(次郎には恋人らしき女性が三、四人いる)、鈴絵は、自分が恋心を抱いている志村に、今度一緒に公園を散歩してくれ、とデートの誘いをかける。志村が承諾すると、それまでずっと喋らなかった園子が、突然口を開いた。「志村さん、猫に餌やって行って」と。そして、「あっちの子」と言って鈴絵を指さした。「あっちの子には、カリカリでいいから」と園子は言った。次の瞬間、鈴絵は我を忘れて叫んでいた。「あんた、間違ってる! くそばばあ、あんた、ずうっと間違って来てたんだよっ!!」と。いつもはそんな暴言を吐くことはないにも拘わらずだ。叫んだ後、鈴絵はしゃがみ込んで泣き出してしまう。そして、次のように考える。

  私は、今、子供として泣いている、と彼女は思いました。大人として怒った次には、都合良くそうなっている、と。(山田詠美『タイニーストーリーズ』文春文庫、p,244)

 以上が、小説「にゃんにゃじじい」の内容である。

 この小説の中では、男に対する女性の媚態というのが、一つの題材になっている。そのような女性の「媚態」には、「趣味の良い媚態」と「趣味の悪い媚態」の二種類がある。この内、「趣味の悪い媚態」を、作中では「猫真似」と呼んでいる。猫のように男に甘えかかる女のことを、「猫真似する女」というのである。  
 しかし、この小説には「趣味の良い媚態」という態度も登場する。「趣味の良い媚態」を取る女性とは、すなわち「猫真似しない」女性のことであり、男性へのアプローチの仕方がいやらしくない女性のことを指す。主人公の鈴絵は、男性に対して「趣味の良い媚態」を取る、「猫真似しない」少女なのである。そのことは、鈴絵の以下のような会話から分かる。

  私、お兄ちゃんみたいに思ってるのー、とか言って、上級生の男子に甘えてる女見ると張り飛ばしてやりたくなるタイプ。甘えるなら、ちゃんと彼氏にするみたいに甘えたい(同書、p,240)

 だが、作中に登場するもう一人の女性、すなわち園子という老婆は、違う考えを持っている。園子は、女性の、男に対する媚態について、「趣味が良い」とか「趣味が悪い」とかを見分ける眼を持たない。全て一律に、「趣味が悪い媚態」であると考えているのである。彼女には、女性の男に対する媚態は、全て「猫真似」であるように見えているのである。
 だから、鈴絵の夢の中に園子が登場した時、園子は次郎に纏わりつく猫を引きはがしていたのである。ここで、猫が女性の象徴として登場するのは、園子の眼には全ての女の媚態が「猫真似」に見えているからである。しかし、この夢を見ている時点では、鈴絵は、まだ、過去に次郎にアプローチした全ての女性が、「猫真似」の女だったのだろうと考えている。
 また、次郎に親しい女性の存在があることを鈴絵は知るが、彼女たちがどうやら次郎と良い関係にあるという事実にも、鈴絵はまだ気付かない。
 鈴絵が、自分の見た夢の意味と、次郎には恋人に近いような女性がいるという事実に気付くのは、クライマックスにおいてである。クライマックスで、鈴絵は、園子に、「あっちの子には、カリカリでいいから」と言われる。「カリカリ」というのは、猫の固形の餌のことを表していて、この言葉を文字通り受け取れば、園子は鈴絵のことを「猫」として認識していることになる。だが、ここは園子が鈴絵に嫌味を言っているのだと取るのが正しい。すなわち、園子は鈴絵のことを、猫そのものというより、「猫真似する女」であると言っているのだ。志村にアプローチする鈴絵の姿は、園子には「猫真似」に見えたのだろう。
 しかし、この言葉は鈴絵の逆鱗に触れた。鈴絵は、自分の媚態が、実は「猫真似」とは全く異なる、「趣味の良い媚態」であることを知っていた。それなのに、「猫真似の女」扱いをされて、腹を立てたのである。

  「あんた、間違ってる! くそばばあ、あんた、ずうっと間違って来てたんだよっ!!」(同書、p,243)

 と鈴絵は叫ぶ。「あんた、ずうっと間違って来てた」と過去形で言っているのは、ここで、鈴絵は、園子が過去に追い払ってきた、次郎にまといつく女たちは、その全てが「猫真似女」ではなかったのではないかと考えたからである。もしかしたら、その中には、「趣味の良い」アプローチをした女性もたくさんいたのではないかと。その女性たちの真心を踏みにじったという園子の過去を知り、鈴絵は怒ったのである。
 さて、ここからは、鈴絵の人物像について語りたい。私は、鈴絵という少女は、物事の本質を見通すことのできる眼を持っていると考えている。そのような彼女の性質は、作中の結末部分に顕れている。結末で、鈴絵は、

  私は、今、子供として泣いている、と彼女は思いました。大人として怒った次には、都合良くそうなっている、と。(同書、p,244)

 というようなことを考えている。普通の人は、発作的に怒ることの方が「子供」っぽくて、静かに泣くことの方を、「大人」っぽい行為であると考える。「くそばばあ」などという暴言を、「大人っぽい」などと考える人はいない。しかし、鈴絵は、そのような一般的な常識には惑わされずに、次のように考えている。すなわち、自分が発作的に怒ったのは、「大人」として、園子に自分の志村へのアプローチの正当性を訴えるためであり、反対に、自分がしゃがみ込んで泣いたのは、「子供」として、感傷的な気分になって、無駄に涙を流しているだけだ、と。鈴絵の特異性は、まさにこの、一般的な常識で、物事を見分けないという点にある。鈴絵は、「猫真似」と「そうでない媚び」を見分けることもできるが、これは次郎にも当てはまる特性である。だから、鈴絵特有の性質は、発作的な怒りに「大人な態度」を見出し、しゃがみ込んで泣く行為に、「子供っぽい態度」を見出す、という点にこそ顕れていると言えよう。つまり、「猫真似」と「そうでない媚び」を見分けたことも鈴絵の手柄だが、そのレベルのセンスは他の人物も持っていると言える。だからこそ、「突発的に怒ること」と「しゃがみ込んで泣くこと」の例から、鈴絵の「本質を見抜く眼」が、他の誰も及ばない領域まで達していることが明らかになるのである。
 そして、末尾は、鈴絵が以前、次郎にあげた、ラインストーンで縁取られた星が付いたヘアピンが、鈴絵の眼に映る、と言う場面で終わる。

  次郎さんの白い開襟シャツのポケットに挿された、あのヘアピンの星が、涙越しに目に映ります。ほらね、ほらね、と哀しい気持ちで偉ぶりたくなったことでした。(同書、p,244)

 ここで、鈴絵が、「ほらね、ほらね」と考えているのは、なぜだろうか。私はそれは、鈴絵が次郎に「目利き」であるとか、「昼でも星が見えるくらいに目がいい人」(同書、p,240)であると言われたことが関係していると考えている。「昼でも星が見えるくらいに目がいい」というのは、目利きであるということの喩えとしての言葉だ。「昼でも星が見える」という表現と「ヘアピンの星」と言う表現に、同じ「星」という単語が登場することに注目してほしい。この「星」という表現の繋がりにより、この二つの場面は関連性を持たせて解釈して良いということが暗示されているのではないだろうか。だから、結末で、鈴絵が「ほらね」と思ったというのは、彼女が「やっぱり、自分は目利きである」と思ったということを示していると、解釈できる。
 以上を纏めると、次のようになる。
 鈴絵は、自分が「大人」な態度なのか、それとも「子供」なのか、常識に惑わされずに見抜くことができた。このことから、鈴絵はやはり、物事の本質を見抜くことのできる「目利き」なのだと言うことができる。




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