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山崎るり子「おばあさんが行く」について —循環する生—

    おばあさんが行く 山崎るり子

      おばあさんはいつものスーパーで
      おじいさんのためのいつもの仏花
      買うのをやめて 今日は自分のた
      めに 遠くの村で色づいた 紅い
      ほおずき三本 買いました

  おばあさんが歩いて行く
  歩道のまん中を
  曲がったひざを外側に向けて
  こわいものなど何もない
  どけどけそこどけ みんなどけ
  というふうに 歩いて行く

  あんなふうに歩いてもいいのだ
  小さな子供とおばあさんは
  子供は 母親がすくいあげる
  おばあさんは いつか神様が
  すくいあげてくれる

  カンカンと陽の照る道を
  紅いほおずき三本にぎり
  揺れながら どうどうと
  おばあさんが行く


 この詩が、「おばあさん」が堂々と道の真ん中を歩いて行く様子を描写したものであることは、一読すれば分かる。注目したいのは、「あんなふうに歩いてもいいのだ」と、「おばあさん」の歩き方を肯定する内容の語りだ。語り手はついでに、「小さな子供」も、同じように堂々と歩くことの許される存在として挙げている。なぜ、「おばあさん」と「小さな子供」は、堂々と歩いて良いのか? その理由は、

  子供は 母親がすくいあげる
  おばあさんは いつか神様が
  すくいあげてくれる

 という三行に記されている。「子供」は、「母親」が「すくいあげる」から、堂々と歩いても良いらしい。この「すくいあげる」とは、庇護し、育て上げるという意味か。語り手は、同じように、「おばあさん」も、「神様」によっていつか「すくいあげ」られる存在だと言う。
 ところで、ここで突然出てきた「神様」とは、一体何か? この「神様」の正体について、私は一つの解釈を施したい。それは、次のような解釈である。
 この詩は、「子供」を「母親」が「すくいあげる」のと同様に、「神様」が「おばあさん」を「すくいあげる」のだと主張している。ここで、我々読者が気付くべき一つの事実がある。それは、作中の「子供」は、やがて「母親」になり、それから「おばあさん」になる存在である、という事実である。だとすると、「神様」とは、「おばあさん」が、死んだ後になるものを指してはいないか。つまり、女性は年を取るにつれて、

 子供→母親→おばあさん→神様

 という成長の経過を辿っていくのである。ここで、「神様」とは死者のことだったのだと分かる。日本には祖先の霊を信仰する風習があることからも、ここでの「神様」は一神教のそれではなくて、死者を指すのだと言える。そして、さらに、死者(つまり「神様」)とは、やがて「子供」としてこの世に生まれてくる存在であると指摘できる。言い換えれば、死んだ命は、新しい命として生まれ変わるのである。ここまでを図で表すと、

 子供→母親→おばあさん→神様→子供

 ということになる。この図の右端の「子供」の後に、「母親」が続くことは言うまでもない。つまり、女性は、この四つの過程(「子供」、「母親」、「おばあさん」、「神様」)を永久に循環しているわけである。
 しかし、これだけでは話は終わらない。上の図は、一人の女性の人生を表しただけの図である。これに加えて、この女性の生みの親である「母親」の存在についても、我々は考えなければいけない。「おばあさん」だと表記が長くて図にしにくいので、「祖母」と表記すると、以下のような図になる。

 ①……子供→母親→祖母→神様……

 ②……母親→祖母→神様→子供……

 ③……祖母→神様→子供→母親…… 

 ④……神様→子供→母親→祖母……

 この図を縦に見ると、最初の項目では、①は「子供」、②は「母親」、③は「祖母」、④は「神様」となっている。次の項目では、①は「母親」、②は「祖母」、③は「神様」、④は「子供」となっている。このことから、①②③④の四人の人物がいれば一家の女性陣は構成され、この一家は永遠に存続するという事が言える。つまり、一人の女性の人生の循環を、四人分合わせて、初めて一家が構成されるということだ。
 さらに、まだ指摘しなければならない事実がある。それは、一人の女性は、その循環する生の中で、常に、相手を「すくいあげる」存在か、相手によって「すくいあげ(られる)」存在となっているという事実である。「母親」の時と、「神様」の時は、「すくいあげる」存在、「子供」の時と、「おばあさん」(図では「祖母」と表記した)の時は、「すくいあげ(られる)」存在となるのである。だから、一人の女性は、その生の循環の中で、「すくいあげる」という役割と、「すくいあげ(られる)」という役割を、交互に務めなければならないのである。
 ここで、作品に戻りたい。作中の「おばあさん」は、今日、スーパーで「紅いほおずき」を三本買ったと言う。そしてそれは、いつもとは異なる、自分のための行動だったと言う。なぜ、「おばあさん」はそのような行動を取ったのか? —それは、彼女が、上で説明したような女性の生の循環というものに気づいたからではないだろうか。その上で、彼女は、自分が、やがて「神様」によって「すくいあげ(られる)」存在であることを自覚した。だから、歩道の真ん中を堂々と歩いたのである。
 以上より、この詩は、女性の生というものを、一つの循環として捉える作品であると言える。 

 

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