井坂洋子「濡れた針」を読む
濡れた針 井坂洋子
感情の回転板が壊れ
灰色に散っている
蚊の針が一段と深く入るのを
息をひそめて見る
血液の一滴でも
尻が赤く腫れていく
蚊の充実を
うらやましいように思う
その一滴にわたしがいる
その一滴にしかいないのかもしれない
頭の右側は地虫が鳴くように痛い
空洞に感じられる
すずしい左側の窓から
傘をひらいて外へでる
入ったお店で
コピー用紙を買う
わたしの後ろに
いつまでも立っていた若い店員
知的障害などという言葉では
あのこころはあらわせない
(こころは揮発性のものであるにしろ)
用紙の束を大事に胸に抱いて
こちらへどうぞと
出口まで
案内してくれる
向こうを 知らぬ顔の人たちが行き交う
そこが生の宮殿へのドアのように
わたしが濡れた傘を手にした
特使でもあるかのように
この詩は、人間の生の在り方にまつわる一つの発想を核にして成り立っている作品である。作中で、語り手は最初はその発想に気づかないが、一人の若者(知的障害のある人物)の行動をきっかけに、その発想に思い至る。その語り手の変化に、この作品のドラマが設定されている。
実際に内容を見てみよう。作品冒頭には、
感情の回転板が壊れ
灰色に散っている
とあるが、「感情の回転板」とは一体何だろうか。
回転する板を想像すると、板が中心を軸に回転し、板の右側だったところが左側に、左側だったところが右側になるところが浮かんでくる。このイメージから、「右側」は「左側」と交換可能である、つまり「右側」は「左側」と等しい、ということが言える。
しかし、ここでは、その「回転板」が壊れているため、「右側」は「左側」と等しくないということだろうか。——いや、壊れているのは「感情の回転板」なので、「右側」と「左側」が等しいようには感じられない、というのが語り手の今の状態なのではないだろうか。つまり、真実としては「右側」と「左側」は等しいのに、この時点ではそう感じられない語り手の心境が、ここでは問題になっているのである。
では、「右側」とか「左側」とは、一体何のことを言っているのだろうか。作中には、
頭の右側は地虫が鳴くように痛い
という記述がある。この、頭の右側が痛い、という描写は、ただ単に語り手の頭が痛むという事柄を表しているのではなくて、明らかに「感情の回転板」と関わりを持って登場していると考えられる。
ではなぜ、語り手の頭の右側は痛むのか。その直前の記述を見てみよう。
蚊の針が一段と深く入るのを
息をひそめて見る
血液の一滴でも
尻が赤く腫れていく
蚊の充実を
うらやましいように思う
その一滴にわたしがいる
その一滴にしかいないのかもしれない
ここで語り手は、語り手自身の血を吸った蚊の、尻が赤く腫れていく様子を、「蚊の充実」と捉えている。そして、その血の一滴にしか「わたし」はいないのかもしれない、と考え、蚊のことを漠然とうらやましく感じている。この時点では、この語り手の考えが作品全体においてどういう意味を持つのかよく分からない。だが、今はとりあえず、語り手が自分の血が蚊に吸われるのを見て、自分の存在に対して否定的な気分になっているのだ、と捉えておけば良いだろう。
さて、「その一滴にしかいないのかもしれない」と、ややネガティブな考えを抱いてしまった語り手は、頭が痛み出すのを感じる。この頭の「右側」が痛むという描写は、この蚊にまつわる語り手の考えが、先程の回転板で言う「右側」の考えに当たることを示している。
では、それに対する「左側」の考えとは何か。作中から、「左側」という単語を含む記述を探してみよう。
空洞に感じられる
すずしい左側の窓から
傘をひらいて外へでる
という描写が、頭痛にまつわる記述の次の連にある。窓から外へ出ることはできないので、「すずしい左側の窓」は、語り手の頭の中の、痛みがない側の頭を表していることが分かる。実際にはドアから外へ出たのだろうが、語り手はそれを省略した上で置き換えて語っているのである。ともあれ、ここには「左側」という単語があるので、この後に提示される考えが、回転板の「左側」の考えに当たるのだということが暗示されていると言える。
それでは、その「左側」の考えとは一体何か。外へ出てから入った店で、語り手はコピー用紙を買った。語り手の後ろには、知的障害のある若い店員が、ずっと控えていた。その店員は、コピー用紙の束を大切に胸に抱いて、出口まで案内してくれた。
向こうを 知らぬ顔の人たちが行き交う
そこが生の宮殿へのドアのように
わたしが濡れた傘を手にした
特使でもあるかのように
とあるが、「向こうを 知らぬ顔の人たちが行き交う」は、「そこ」を説明しているのだと私は捉えた。また私は、「そこが生の宮殿へのドアのように/わたしが濡れた傘を手にした/特使でもあるかのように」について、店員の、語り手への丁寧な送り出しを修飾しているのだと考えた。
つまり、店員は知的障害を抱えているため、普通の店員のする客の送り出し方とは異なる見送り方を、語り手にしてくれたのだ。そのことから、語り手はある事柄を思いついた。その事柄とは、「人間と言うものは、『生の宮殿』から自分の分の生を吸い取る蚊のような存在なのではないか」ということである。
なぜこのようなことが言えるのか。それは、「濡れた傘」という表現と、作品のタイトルの「濡れた針」という表現がリンクしていることに注目すると分かる。雨に濡れた語り手の傘と、血に濡れた蚊の針が重ねられている。このことから、語り手から血を吸い取る蚊と同じように、語り手自身は「生の宮殿」から生を吸い取っているのだと言える。つまり、尻を血で赤く腫らしている蚊を見て、「蚊の充実」をうらやましく思った語り手自身も、自分自身を「生」で充実させている存在であるということだ。そして、語り手が吸い取った「生」の一滴の中にしか、「生」は存在しないのである。このことは、語り手だけでなく、人間一般(生物一般と言っても良いかもしれない)に当てはまる。
ここで重要なのは、「生の宮殿」というキーワードである。これは抽象的な概念であり、我々がそこから「生」の一滴を吸い出すことで、我々は生まれ、死ぬ時にはそこへまた「生」を返す、そのような場所として想定されている。
また、作品には「蚊の中にしか『わたし』は存在しない」という内容があるが、これは、「我々人間(生物でも可)の中にしか『生』は存在しない」という内容を引き出すためだけに登場する、いわば伏線である。だから、「蚊の中にしか『わたし』は存在しない」という考えは、語り手の実感に基づいてはいるけれど、論理的には成り立っていない考えである。ともあれ、この、「人間の中にしか生は存在しない」という考えもまた、この作品のテーマとして重要である。
この、「人間の中にしか生は存在しない」などの、「生の宮殿」にまつわる考えが、先に述べた、感情の回転板の「左側」に当たる考えである。語り手は、最初は、蚊と自分の血にまつわる考察しかしていなかった。つまり、「右側」の考えしか持っていなかったのである。だが、知的障害のある店員の行動から、「左側」の考えに気づいたのである。回転板は右側が左側であり、また左側が右側へと入れ替わるので、「生の宮殿」にまつわる考えは、蚊にまつわる考えと構造が全く同じであることが指摘できる。そして、「右側」の考えに「左側」の考えを足して、初めて、真実に到達できるのだ。
さらに、語り手が、知的障害のある店員のおかげで真実に辿り着けたということは、一度目に外へ出た時(「空洞に感じられる/すずしい左側の窓から/傘をひらいて外へでる」)には真実に気づかなかったことからも分かる。ただ外へ出るだけではなくて、「濡れた傘を手にした/特使でもあるかのように」送り出されることが必要だったのである。
ちなみに、この若い店員が知的障害者であると明記されてはいないが、「知的障害などという言葉では/あのこころはあらわせない」という表現から、そうなのだと分かる。もちろん、この店員自身が実際に、「生の宮殿」とか「特使」などの考えを抱いているのかどうかは、誰にも分からない。しかし、語り手は、この知的障害のある若者の「こころ」に、一つの“解釈”を施しているのである。すなわち、この店員が自分を丁寧に送り出すのは、「生の宮殿」へと語り手を送り出すという意識を持っているからではないだろうか、という解釈だ。そのように、語り手は、この若者の境地が、真実に到達した者のそれであると考えた。ただし、語り手は、知的障害のある人はその境地を言語化できないということもちゃんと分かっている。そのことを表しているのが、「こころは揮発性のものであるにしろ」である。これは、若者の境地、つまり「こころ」は、それがきちんと言語化される前に消えてしまう、という意味であろう。
以上より、この詩は、人間の生の在り方に対する新解釈をテーマとして内包しながらも、それを語り手が発見する過程をドラマとして描き出した作品であると言える。
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