会田綱雄「伝説」を読む

会田綱雄「伝説」

湖から
蟹が這いあがつてくると
わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
山をこえて
市場の
石ころだらけの道に立つ

蟹を食うひともあるのだ

縄につるされ
毛の生えた十本の脚で
空を搔きむしりながら
蟹は銭になり
わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
山をこえて
湖のほとりにかえる

ここは
草も枯れ
風はつめたく
わたくしたちの小屋は灯をともさぬ

くらやみのなかでわたくしたちは
わたくしたちのちちははの思い出を
くりかえし
くりかえし
わたくしたちのこどもにつたえる
わたくしたちのちちははも
わたくしたちのように
この湖の蟹をとらえ

あの山をこえ
ひとにぎりの米と塩をもちかえり
わたくしたちのために
熱いお粥をたいてくれたのだつた

わたくしたちはやがてまた
わたくしたちのちちははのように
痩せほそつたちいさなからだを
かるく
かるく
湖にすてにゆくだろう
そしてわたくしたちのぬけがらを
蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
むかし
わたくしたちのちちははのぬけがらを
あとかたもなく食いつくしたように

それはわたくしたちのねがいである

こどもが寝いると
わたくしたちは小屋をぬけだし
湖に舟をうかべる
湖の上はうすらあかく
わたくしたちはふるえながら
やさしく
くるしく
むつびあう

 この詩のタイトルが「伝説」というものであるため、多くの人はこの詩の持つニュアンスを誤解してしまうのではないかと、私は考える。どういうふうに誤解するのかというと、この詩に登場する「わたくし」たちの生活が、凄絶な美しさを感じさせるものであるため、まるでそれが一つのお伽噺であるかのような(すなわち“伝説“であるかのような)感覚に囚われてしまう……、そういう意味で「伝説」というタイトルが付けられているのかと考える勘違いである。
 それがなぜ勘違いなのかというと、それではこの詩の持つ雰囲気しか味わっておらず、内容に込められた意味について、積極的に考えているとは言えないからだ。
 では、私はこの作品をどのように読むのか。以下に私の考えを述べたい。
 私は、まず、この詩の持つ凄味がどこから来ているか考えた。それは、やはり、自分たちの「ぬけがら」を蟹に食べさせる、という内容であろう。この内容は、衝撃的という他ない。なぜ、作者は、このような衝撃的なモチーフを使用したのだろうか。その問題について、「美しさを醸し出させるため」という答えを思いつく人もいるかもしれない。しかし、先程指摘したように、これは浅い理解であると、私は考える。
 では、深い理解に辿り着くためには、どう考えれば良いのか。私は、蟹にくわれる運命にある「わたくし」の語りに、悲壮感が漂っていないことに注目したい。
 一見、残酷な運命を生きているかに見える「わたくし」たちであるが、その実、大げさに悲壮な顔をして、それについて語っているわけではない。むしろ、自分たちの生活に誇りを持ってさえいるかのように見える(「蟹を食うひともあるのだ」という一行に込められたわずかな軽侮から、それが感じられる)。この「誇り」から、凄味のある美しさが生まれているのであり、いわば美しさは副産物なのである。重要なのは、一見、不幸の極みに見える彼らの生活と、その暮らしに対する彼らの誇りとのギャップであろう。蟹に食われる、という衝撃的なモチーフは、そのギャップを最大にするために用いられているものだと分かる。
 ところで、「わたくし」たちは、なぜこのような生活をしているのだろうか。一般的に、蟹に自らの死体を食わせ、子供達がその蟹を捕まえて収入にする、というような暮らしは、極貧であるがゆえになされるものと考えられている。確かに、この詩の中の「わたくし」たちは、とても貧しい。
 しかし、先程も述べたように、この詩には、貧しさゆえの悲壮感というものは漂ってはいない。むしろ、そのことを誇っているように感じられる。なぜ彼らがそれを誇っているのかというと、自分たちの「ちちはは」と同じ道を辿ることができるという喜びに包まれているからである。これは、言い換えれば、自分たちの「ちちはは」の一生を「伝説」化し、それをなぞるという行為に誇りを感じている、ということになる。
 これを纏めると、以下のようになる。
 この詩に登場する「わたくし」たちの一生は、確かに、経済的な豊かさの度合い(つまり極貧であるということ)に規定されてはいるが、彼らはその人生を自分で選び取っているかのように感じている。「伝説」という言葉からは、英雄が登場するような物語が想像されるが、彼らは、自分の親の辿った「伝説」的な人生をなぞることで、自らもその「伝説」に組み込まれることに、誇りを感じているのだ。
 このことは、この詩の登場人物に留まらず、我々人間一般に言えることだ。我々は、予め規定されている人生の中においても、それを自ら選択したかのように感じるものである。その裏に隠されているカラクリとしては、親の人生を「伝説」とし、それをなぞる、という形を取ることで、そこに自分の主体性を見出すことができる、という仕組みである。
 このように、親の「伝説」をなぞる、という発想は、様々な時代の人間の生の真理を突いたものであると言える。この詩は、それを、普通に考えたら全く主体性を見出せない人生の最たるものに、「伝説」の発想を適用することで、それが真理を突いていることを確認している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?