高良留美子「海鳴り」を読む

ふたつの乳房に
静かに漲ってくるものがあるとき
わたしは遠くに
かすかな海鳴りの音を聴く。

月の力に引き寄せられて
地球の裏側から満ちてくる海
その繰り返す波に
わたしの砂地は洗われつづける。

そうやって いつまでも
わたしは待つ
夫や子どもたちが駈けてきて
世界の夢の渚で遊ぶのを。

 この詩の内容が分かりにくいのは、「わたし」と「地球」、そして「月」の位置関係が把握しづらいからであろう。しかし、これら三つの要素の位置関係を、物理的に理解しようと試みても、それは無駄である。なぜなら、この詩の中に展開しているのは、ある種のイメージの世界であり、そこでは、「わたし」は地球上の小さな一点にしか存在できないはずだという固定観念など、やすやすと乗り越えてしまっているからだ。
 大切なのは、作者によって繰り広げられる数々のイメージを、順を追って辿っていくことである。以下、実際に、そのような試みを行っていこうと思う。
 まず、冒頭の、「ふたつの乳房に 静かに漲ってくるものがあるとき」についてである。ここでは、一人の女性である「わたし」が、母乳によって乳房が張ってくるのを感じているという状況が描かれている。この状況は、イメージの世界に属するものではなくて、一つの現実の光景を切り取っていると考えて良いだろう。
 次に、「わたしは遠くに かすかな海鳴りの音を聴く。」とあるが、「わたし」は実際に海鳴りの音を耳にしているわけではない。あくまでも、「わたし」の空想の中で、「海鳴り」の音が聴こえてくるのである。つまり、既にここから、イメージの世界は始まっている。
 さて、第二連には、「月の力に引き寄せられて 地球の裏側から満ちてくる海 その繰り返す波に わたしの砂地は洗われつづける。」とある。ここでは、潮の満ち引きが、月の満ち欠けと関係のあることが触れられている。だが、ここでは、月の満ち欠けに影響されるもう一つの現象が、暗示されている。それは、女性の月経である。だから、「月の力に引き寄せられて 地球の裏側から満ちてくる海」とは、既に、ただの地球と月という二つの天体の話ではなくて、「わたし」の月経にまつわるイメージをも含んでいるのである。
 しかし、次の第三連には、「世界」という言葉が登場する。先ほどは、「地球」と「月」の関係性は、女性の月経の暗喩であると述べた。そのことはつまり、「地球」という言葉を、「月経」という意味にのみ受け取り、丸い天体としての映像を伴わないで想像することを指示されている、ということだ。
 だが、この第三連においては、「世界」という語により、「地球」という語を、スケール感を伴った、一つの天体として想像することが許されていることが分かる。そう考えると、「わたしの砂地」は、文字通り地球規模の大きさで存在していると、考えて良いだろう。つまり、ここでは読者に、いったんは「地球」とは女性の月経の比喩にすぎないと思わせておいて、実はそれだけではなく、地球のスケール感をも念頭に置いてほしい、と明かす手法を取っているのである。
 さて、この「地球」には、もう一つ重ねられているイメージがある。それは、冒頭で登場する「わたし」の「乳房」である。まるで天体のように丸い「乳房」、そこに漲る母乳も、「海」としてのイメージを内包している。「わたし」の乳房が地球であると考えると、「わたし」の肉体は地球よりも大きいと考えられる。つまり、ここでは、「わたし」の身体の大きなスケールが、より強調されているのである。
 「そうやって いつまでも わたしは待つ 夫や子どもたちが駈けてきて 世界の夢の渚で遊ぶのを。」の中の、「世界の夢の渚」とは、「わたしの砂地」と同じであると考えて良い。しかし、それが地球規模の大きさであることを改めて確認するため、「世界」という言葉を使用している。
 以上により、この詩は、母性というものの豊かな広がり、そのたおやかさを、地球規模の大きさとして捉えた作品であると言える。そのことは、イメージを幾重にも重ねていくことで、初めて可能になっている。
 私は冒頭で、この詩について「分かりにくい」と述べた。確かに、例えば、「わたし」と「地球」や「月」の位置関係が掴みにくい、など、曖昧な部分を含んではいる。しかし、まさにその曖昧さ、イメージの多義性こそが、このように、母性というものを大きく捉えることを可能にしているのである。
 また、この「わたし」の母性の豊かさは、そのまま、「母性」という言葉の広がりに繋がっている。既に、一人の女性の「母性」というよりも、「母性」という概念そのものが、地球を優しく包んでいる—、この詩を読んで、そんな想像をすることすら可能である。

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